「お布施はあっても法話がない」お寺に虚しさを感じるあなたへ。僧侶の本当の役目とはのアイキャッチ画像

親の七回忌、十三回忌、あるいは毎年のお盆。義理や習慣として実家のお寺に足を運び、住職のお経に頭を下げる。しかし、そのあとに聞かされる話といえば、政治の話題や、最近の趣味の世間話ばかり……。

「仏教とは、死んだ後の儀式のためにあるものなのだろうか」
「お寺とは、墓の管理の対価として、定期的にお布施を集めるビジネスに過ぎないのだろうか」

もしあなたが、このような「虚しさ」や「違和感」を抱いているのなら、それは決してあなただけではありません。

今日は、ある現役の僧侶の方から届いた手紙を紹介しながら、私たちが知らず知らずのうちに思い込んでしまっている「仏教の誤解」と、寺や僧侶の「本来あるべき姿」についてお話ししたいと思います。

現役僧侶の告白「お布施をもらうのが仕事だと思っていた」

最近、浄土真宗の僧侶の方、特に本願寺派の方からお手紙や電話をいただくことが増えてきました。

ある僧侶の方は、

先生の動画を見て勉強させてもらっています。今までお坊さんはお布施を貰うのがお務めかと思っておりました。住職の法話も世間話で、仏法については話されません。しかし、住職の務めで葬式の導師など、さすがと思わせる場面に出会いました。

と書いておられました。

今まで「お坊さんの務めは、お布施をもらうことだ」と思い込んでいたそうです。住職の法話を聞いても世間話ばかりで、肝心の仏法については何も語られない。

一方で、葬式の導師を務める際の読経や所作は流石(さすが)で、立派なものだそうです。

「仏法の話はほとんどないけれど、葬式の導師としての読経はさすがだな」

そう感心する一方で、何かがおかしいと感じていたのでしょう。

本来、お寺は何のために存在するのでしょうか。門徒も僧侶もお互いにその目的を見失っているのが現状のようです。

仏法を説かない寺は滅びる

寺は、何のためにあるのか。それは、「法を説くため」にあります。これを仏教の言葉で「法施(ほうせ)」と言います。

お釈迦様の本当の御教えを、多くの方々にお伝えする。その尊い教えを聞き、心が安らぎ救われた方が、

「こんな尊い仏法を聞かせていただいて、ありがとうございました」

というお礼の気持ちで出されるのが、本来の「財施(ざいせ)」、つまりお布施なのです。順序が逆になってはいけません。法施(教え)があるからこそ、財施(感謝)がついてくるのです。

もし、仏法が説かれなければどうなるでしょうか。

「寺の瓦が落ちた」
「墓を直さなければならない」
「庫裏(くり)の修繕が必要だ」

そうやって寄付ばかり呼びかけられても、門徒の方々は納得できないでしょう。

「何のためにお寺を守らなければならないのか」
「そんなにお金がかかるなら、もう檀家を辞めてしまおう」

そう思うのも無理はないのです。

衝撃の原体験「仏壇から消えたお布施」

私にも、忘れられない幼少期の記憶があります。ある日、家族みんなで出かけることになった時のことです。

母が玄関の鍵を閉めずに外に出ようとしたので、私は慌てて言いました。

「母さん、玄関閉まってないよ」

すると母は、平然としてこう言ったのです。

「ああ大丈夫、今日は坊さん来る日だから」

私は耳を疑いました。家には誰もいないのです。

「坊さんが来る日だから鍵を閉めない? じゃあ、お坊さんは誰もいない家に入ってくるのか?」

なんだか変だなと思いながらも、家族で出かけました。やがて帰宅し、ふと思い出して母に尋ねました。

「そういえば今日、坊さん来る日だったけど、来たのかな」

母は仏壇を確認し、こう言いました。

「ああ、来とった来とった。置いておいたお布施がないわ」

その時、子供心に強烈な印象が残りました。

お坊さんというのは、誰もいない我が家に勝手に上がり込み、誰にも聞かれないお経を仏壇に向かってあげ、そしてお布施だけを持って帰る人たちなのだ、と。

「仏教というのは、死んだじいさん、ばあさんのためにお経をあげて、お布施をもらう商売なんだ」

「生きている間は用事がない。死んだらお経をあげてもらうものだ」

どうしても、そう思わざるを得ませんでした。おそらく、多くの日本人が持っている「仏教観」も、これに近いものではないでしょうか。

お経は「死んだ人」のためではない

しかし、大学に入って仏教を深く学び直した時、その常識は根底から覆されました。仏教とは、「生きている人を、生きている間に幸せにする教え」だったのです。

よく考えてみてください。「死人に口なし」と言いますが、同様に、亡くなった方に「耳」はありません。

お経とは、お釈迦様の説法を弟子たちが書き残したもの。いわば、お釈迦様の「講演集」です。

だから、当然、墓に向かってあげるものでもなければ、死んだ人に聞かせるための呪文でもありません。

そもそも、聞こえないのですから、届きようがありません。生きているときに、お経の中身(教え)を聞かせていただき、本当の幸せになる。これこそが本来の仏教であり、お寺の役割なのです。

ところが、この根本が間違ってしまっているため、現在の仏教界は急速に衰退しています。

『中外日報』という宗教専門紙の記事によれば、日本は「仏教徒の信仰離脱」が最も目立つ地域の一つだそうです。

日本、仏教国で仏教離れ最多。

— 『中外日報』令和5年4月2日号

これはアメリカの研究所が調査したことですが、日本は仏教徒として生まれ育った成人のうち、40%が現在、無宗教を自認しているそうで、これは、仏教国の中で最も高いそうです。

寺院の数は約7万7千と言われますが、そのうち2万ヶ寺にはすでに住職がいません。あと10年、20年もすれば、3割のお寺は消滅してしまうだろうと言われています。

法(教え)を説かないお寺から、人が離れていくのは当然のことかもしれません。

聖徳太子が定めた「宝」とは

日本に仏教を根付かせた聖徳太子は、「十七条憲法」の第二条でこう述べられました。

「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」

三つの宝を深く敬いなさい、という教えです。その三つとは、「仏」「法」「僧」です。

:悟りを開かれた仏さま。
:仏さまが説かれた真実の教え。
:その仏法を正しく説いてくださる方。

仏さまとその教えが「宝」であることには、多くの方が賛同されるでしょう。

しかし、「僧侶もまた宝である」と言われて、納得できるでしょうか。

「あのお坊さんが宝? とてもそうは思えない」

残念ながら、そう感じてしまう方が多いのが現状かもしれません。

しかし、本来の「僧」とは、単に袈裟を着た人のことではありません。

仏の教えを正しく説き、私たちに伝えてくれる人であれば、それは本当に「宝」のような存在なのです。

仏教は、すべての生きとし生けるものが差別なく幸せになれる「万国の極宗(あらゆる国における究極の宗教)」です。

本来、これほど尊い教えはないのです。

アリと人間、どちらが幸せか?

私たちは今、当たり前のように人間として生きています。

しかし、仏教では人身受け難し、今已に受く(三帰依文)と説かれます。

人間に生まれることは、とてつもなく難しいことなのです。

地球上には、未発見のものを含めると3000万種もの生物がいると言われています。最近の調査では、わずか1年4ヶ月の間に866種もの新種の海洋生物が発見されました。海の中はまだまだ未知の世界です。

身近な例で言えば、「アリ」だけでも地球上に2京匹も生息しているそうです。「億」の上が「兆」、「兆」の上が「京」です。人間の人口が80億人だとしても、圧倒的にアリの方が多いのです。

なぜ、私たちはアリに生まれずに、人間に生まれたのでしょうか。

ただ食べて、働いて、寝て、死んでいくためでしょうか。それならアリの人生(蟻生?)と変わりません。

「人身受け難し」

私たちが人間に生まれた目的は、ただ一つ。「仏法を聞くため」です。

人身受け難し 今すでに受く仏法聞き難し 今すでに聞く

— 三帰依文

仏教の真髄である「阿弥陀仏の本願」を聞かせていただける。これは、2京匹のアリには絶対に不可能なことです。人間として生まれた今しか、果たすことのできない目的です。

寺は「聞法の道場」

お寺での儀式に虚しさを感じ、このブログにたどり着いた方は、真面目に仏法を求めておられる方だと思います。

「死んだらどうなるのか」「何のために生きているのか」

その問いに対する答えは、葬式のあとの世間話にはありません。

お釈迦様が説き残されたお経の中にこそ、鮮やかに記されています。今、この文章を読んでくださっているあなたは、極めて稀有な仏縁のある方です。あと一歩です。

「人間に生まれてよかった!」

と、心の底から叫べるような生命の歓喜を、どうか生きている間に味わってください。お寺は、死んだ人のための場所ではありません。

あなたが、あなた自身の人生の目的を知り、本当の幸せになるための「聞法(もんぽう)の道場」なのです。

形骸化した仏教から脱して、生きた仏教を学び、聞法の一本道を進んでいただきたいと思います。

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