なぜ「他人の幸せ」を願う人が、結局いちばん幸せになれるのか?仏教の「自利利他」に学ぶ、究極の幸福論

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「情けは人のためならず」と分かっていても、つい自分の利益を優先してしまうのが人間です。しかし、近江商人が実践した「三方よし」の精神のように、他者を幸せにすることこそが、巡り巡って自分を最高の幸福へと導く道だとしたら?この記事では、仏教の「自利利他」の教えを紐解き、なぜ利他的な生き方が真の成功と幸福に繋がるのか、その深い仕組みを分かりやすく解説します。

自分さえ良ければ…では、なぜ幸せになれないのか?

「自分さえ得をすれば、他人はどうなってもいい」。 口に出さずとも、心のどこかでそんな風に考えてしまうことはないでしょうか。しかし、その道を進んでも、決して本当の幸せにはたどり着けないと仏教は教えます。

有名な寓話「地獄の長い箸、極楽の長い箸」が教えること

ある男が、地獄とはどんな所か見物に行きました。 地獄の罪人たちは皆、骨と皮ばかりに痩せ細り、悲惨な姿をしています。しかし不思議なことに、食卓には山海の珍味が山と積まれているのです。

「こんなにご馳走があるのに、なぜみんなガリガリなんだろう?」

よく見ると、彼らが手にしているのは1メートル以上もある長い箸。ご馳走を取ることはできても、長すぎて自分の口に運ぶことができません。目の前のご馳走を食べられず、皆が苦しんでいるのです。

長い箸
こんな長い箸で どうやって食べろというのか

次に男は極楽へ行ってみました。極楽の住人たちはみなふくよかで、ニコニコと幸せそうです。食卓には、地獄にも劣らない豪華なご馳走が並んでいます。 しかし、彼らの手にも、やはりあの長い箸が握られていました。

「いったいどうやって?」

男が目を凝らすと、そこには驚くべき光景が広がっていました。極楽の住人たちは、長い箸で掴んだ食べ物を、自分の口ではなく、向かいにいる相手の口へと運び、「さあ、どうぞ」と食べさせてあげていたのです。相手もまた、同じように自分の口へ運んでくれるため、お互いに感謝し、喜び合いながら食事を楽しんでいました。

「われ先に」と求める「我利我利(がりがり)」

この寓話が示すように、自分さえよければいいという心を、仏教で 「我利我利」 といいます。

我利我利(がりがり)とは

我が利益、我が利益と、自分のことばかりを考える自己中心的な心のこと。地獄の住人たちのように、自分さえよければ他人はどうなってもいいという考え方は、結果的に自分自身を飢えさせ、苦しめることになります。

交通事故を起こしやすいのは、相手に譲らず「われ先に」と進もうとする、我利我利の心が強い人だという統計もあるそうです。自分を優先する心が、かえって自分を不幸や災難に導いてしまうのです。

「おかげさまで」と生きる人 - 仏教が教える「自利利他」の精神

「我利我利」の対極にあるのが、 「自利利他(じりりた)」 という生き方です。

自利利他(じりりた)とは

「利他」がそのまま「自利」になる、という仏教の言葉。「利他」とは他を利する、つまり他人を幸せにすること。「自利」とは自らを利する、自分が幸せになることです。他人を幸せにするままが、自分が幸せになる、ということです。

この精神は、古くから日本人の心に根付いてきました。

オレがオレがの“が”を捨てて、おかげおかげの“げ”で暮らせ

昔から、日本ではこう教えられてきました。

「オレが儲けるんだ。オレがやったんだ。オレがしてやった」という“が”を捨てて、「皆さんのおかげで、おかげさまで、このように幸せに生かされてます」と、こういう“げ”で暮らしなさい。

「我」を押し通すのではなく、「おかげさま」と感謝して生きる。ここに、自利利他の精神がよく表れています。

【物語】100億円の財産で買えなかったもの。ある男の臨終の後悔

ある所に、一代で100億円もの財産を築いた男がいました。 いよいよ臨終を迎える時、彼は長男、次男、妻を枕元に呼び、遺産配分を告げます。しかし、それを聞いた長男は泣き出してしまいました。

【長男】  「お父さん、世間の人たちが何と言っているか知っていますか。『あいつは金の亡者だ』と言われていますよ」

【父】 「うるさい!オレが金に執着したからこそ、お前たちに財産を残せるんじゃないか!」

しかし、長男は静かに、しかし力強く語りかけます。

【長男】 「お父さん、100億円の財産も、1円たりともあの世へは持っていけません。お父さんが持っていけるのは、これまで多くの人を苦しめてきた悪業と、皆さんの恨みや憎しみだけですよ」

それを聞いた父は、初めてさめざめと泣きました。
「そうか…オレは抜け目のない男だと思っていたが、自分のことが一番抜けていた…」

多くの人が幸せになるために財を活かせていたら、きっと、もっと幸せな人生になられたと思います。

何もなく、靴だけが置かれたアスファルト
どれだけ財を築いても、臨終には一つも持っていけない

ビジネスをも成功に導いた「利他の精神」

「そんなきれいごとで商売が成り立つか」と思われるかもしれません。しかし、実はこの「自利利他」の精神こそが、日本の優れたビジネスを支えてきたのです。

近江商人の成功哲学「三方よし(売り手・買い手・世間よし)」とは?

商売上手で知られる近江商人(現在の滋賀県出身の商人)たちは、浄土真宗の教えが盛んな土地柄で育ち、その多くが「自利利他」の精神を大切にしていました。その精神が、有名な 「三方よし」 という経営哲学に結実しています。

三方よし とは

売り手よし、買い手よし、世間よし」の三つが満たされて、初めて良い商売だとする考え方。売り手だけ、買い手だけが得をするのではなく、共に利益を得て、さらにはその商売が社会全体をも良くしていくことを目指す、持続可能なビジネスモデルです。

名門・高島屋の家風に受け継がれる「自利利他」の心

この精神は、現代にも受け継がれています。百貨店で有名な高島屋の二代目・飯田新七氏は、自社の家風についてこう語っています。

お客様に得をしてもらうままが、自分たちの利益になるように心がけています。いわゆる「自利利他」は、昔から変わらぬ当店の家風であります。

— 高島屋二代目 飯田新七氏
古い日本の町並みで、商人と客が笑顔で商品をやり取りし、周囲の町も活気づいている様子
「三方よし」の精神は、売り手、買い手、社会全体を豊かにする

なぜ私たちは、心から「利他」に生きるのが難しいのか?

ここまで聞くと、「自利利他」が素晴らしいことはよく分かります。しかし、そうと分かっていても、実践するのはなんと難しいことでしょう。なぜなら、私たちの心には、どうしても「我利我利」の思いが渦巻くからです。

人間の本性は「欲に手足をつけたようなもの」という現実

江戸時代の作家・井原西鶴は「人間は欲に手足をつけたようなものだ」と喝破しました。自分さえよければいい、という「我利我利」こそが、私たちの本性なのです。

雪だるま
雪だるまは雪でできている。人間も欲でできている

では、そんな私たちが、どうすれば本当に「利他」に生きることができるのでしょうか。 その問いに対して、浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、唯一の道を明らかにされています。

それは、阿弥陀仏の本願に生きるということなのです。

阿弥陀仏から頂く「利他の信楽」とは

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願によって救われた心を「利他の信楽(しんぎょう)」と教えておられます。これは、私たちが自分で作り出す心ではありません。

阿弥陀仏から賜る「他力の信心」

利他の信楽(りたのしんぎょう)とは

阿弥陀仏から賜る、疑いの晴れた明るく楽しい心のこと。「他力の信心」ともいわれます。この心は人間の力(自力)で生み出すものではなく、「すべての人を必ず絶対の幸福に救う」という阿弥陀仏の本願力(他力)によって与えられるものです。

この「利他の信楽」を阿弥陀仏からいただくと、心がガラリと変わります。 「自分だけ救われればそれでいい」という気持ちには到底なれず、この喜びを他の人にも伝えたい、与えずにはおれないという気持ちなるのです。

それは、救ってくださった阿弥陀仏への御恩返し(仏恩報謝)の心であり、それがそのまま、苦しんでいるすべての人を救う活動(衆生済度)になるのです。

自分のためではありません。阿弥陀仏への感謝の心が、そのまま他者を幸せにする活動へと転じていくのです。

親鸞聖人の90年のご生涯が示す、仏恩報謝の姿

親鸞聖人は29歳でこの「利他の信楽」を獲られてから、90歳でお亡くなりになるまで、この仏恩報謝と衆生済度のご生涯を送られました。

それは義務感からではありません。ただただ、阿弥陀仏に救われた喜びと感謝から、すべての人に本当の幸せを伝えたいという願いに満ちた、光り輝くご生涯だったのです。

苦労が苦労でなくなる「無碍の一道」という絶対の幸福

阿弥陀仏から「利他の信楽」をいただき、衆生済度に生きる人生は、どのような世界なのでしょうか。

「信を獲て もとどり済んで 娑婆遊び」の境地

信を獲て もとどり済んで 娑婆遊び

「信を獲て」とは、阿弥陀仏から他力の信心をいただくこと。 「もとどり済んで」とは、人生の目的を果たし、いつ死んでも悔いはない、元は取った、という心境です。

そうなれば、あとの人生は「娑婆遊び」。これは、ギャンブルや遊興にふけることではありません。人々を幸せにする「衆生済度」の活動そのものが、楽しくて仕方がない「遊び」のようになるのです。大変な苦労があっても、それが苦労と感じられなくなります。

この世界を、親鸞聖人は 「無碍の一道(むげのいちどう)」 とも教えておられます。

念仏者は無碍の一道なり

— 『歎異抄』第7章
無碍の一道(むげのいちどう)とは

一切が障りにならない、妨げにならない絶対の幸福の世界のこと。この世を生きる限り、病気や人間関係の悩み、煩悩はなくなりませんが、それらが念仏者の前進を妨げるものにはならなくなる。「間違いなく浄土へ往く」という往生一定の金剛心は微動だにもしない。衆生済度の活動を妨げるものにはならない。

【親鸞聖人のお言葉】利他の信楽を獲た人を妨げるものは何もない

信を獲て、この無碍の一道に出られた世界について、親鸞聖人は和讃にこう詠われています。

利他の信楽うるひとは 願に相応するゆえに 教と仏語にしたがえば 外の雑縁さらになし

— 『高僧和讃』

(意訳)
阿弥陀仏から利他の信楽をいただいた人、阿弥陀仏の本願のとおりになった人は、お釈迦様や諸仏の言葉にもしたがって生きる人ですから、内からおこる煩悩や、外からのどんな非難・妨害によっても、その幸福が壊されることは全くないのです。

まとめ:あなたの人生を本当の幸福で満たす「利他に生きる」という選択

「自分さえよければいい」という「我利我利」の道は、必ず行き詰まります。 まず他人を幸せにする。相手に喜んでもらおうと生きる。その「利他」の心がけが、巡り巡って自分自身を健康にし、人生を豊かにすることは、様々な研究でも言われています。

そして仏教は、その「利他」の精神を心からの喜びに変え、どんな苦労さえも楽しみに転じてしまう「無碍の一道」という究極の幸福があることを教えています。

それは、阿弥陀仏の本願を聞く一つで開かれる世界なのです。

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参考動画: 【自利利他】他人を幸せにするままが、自分が幸せになれる│近江商人の「三方よし」