孤独な人こそ幸せになれる

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「孤独は避けるべきつらい感情だと思っていました。なぜ、その孤独な人『こそ』が幸せになれる、と言えるのですか」。苦しみの重い人こそ仏教で「悪人」と言われます。そういう悪人こそ先に救いたいというのが、親鸞聖人の「悪人正機」の教えなのです。

善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや。 (歎異抄)

幸せの条件は、孤独をなくすことではありません。むしろ、その孤独に深く向き合う人こそが、仏さまが真っ先に救いたいと願われる相手なのです。

『あの鐘を鳴らすのはあなた』が歌う「人は皆、孤独の中」という真実

歌手・和田キ子さんの名曲に『あの鐘を鳴らすのはあなた』があります。この曲の中に、多くの人の心を揺さぶる一節があります。

人は皆 悩みの中 人は皆 孤独の中

この歌詞に深く共感する人は少なくないはずです。どんなに幸せそうに見える人でも、実は人に言えないような悩みをもっている。

どんなに多くの友人に囲まれていても寂しさがない、ということはありません。

むしろ、どこかに孤独を抱えて生きているのが、人間のありのままの姿ではないでしょうか。

この歌は、悩みや孤独を抱えながら生きる私たちが、お互いに「鐘を鳴らそう(幸せになろう)」と呼びかける、力強いメッセージとして胸に響きます。

偉業の裏にある「孤独な戦い」という力

一方で、その孤独は、素晴らしい芸術や音楽、書画を生み出す原動力にもなり得ます。

世界的に注目される墨絵画家の茂本ヒデキチ氏は、あるイベントのインタビューでこう語りました。

画家というのは孤独なもんです

キャンバスに向かう時、誰も手伝ってはくれません。人生において、自分自身の道を切り開いていかなければならない局面も同様です。生きるとは、ある意味 で孤独な戦いの連続と言えるかもしれません。そして、そうした中からこそ、真の芸術が生まれるのでしょう。

これはスポーツの世界でも同じです。

大リーグで活躍する大谷翔平選手は、二刀流で「ユニコーン」と称されます。

彼にしかできない領域で、誰に相談することもなく、自身と戦いながら記録を残しています。将棋の藤井聡太八冠もまた、AIから学び、彼にしか見えない世界で最善の一手を探求し続けています。

人生における孤独との戦いは、時として、その人にしか到達できない境地を拓くのです。

野村克也監督が直面した「最悪の事態」?――愛する人を失うという現実

しかし、創造的な孤独とは違う、耐えがたい孤独もあります。

かつてプロ野球監督として名を馳せた野村克也氏は、妻の沙知代さんを心の支えにしていました。ところが、その最愛の妻が先に亡くなってしまいます。深い落胆の中にいた監督は、当時の心境を新聞の取材にこう語っています。

男は弱いと言うけれど、それを痛感してますよ。朝起きても、話し相手がいない。毎日何をして生きて行けばいいんだろう、その手探りばかり。(中略)人には言えないことも、女房なら言えるということがあるでしょう。

— 『朝日新聞』令和元年5月14日号

沙知代さんの死は突然でした。

監督は「野球では、『最悪の状況を常に想定しろ』って言ってきたのにね」と、自身の人生においては、最愛の人の死という最悪の事態を想定していなかったと語っています。

また週刊誌には、亡くなる当日の朝の、こんな逸話も明かされています。

ひとつだけ変だったのは、亡くなる日の朝、隣のベッドで寝ていたサッチーが「手を握ってほしい」と言ってきたことでした。数十年の付き合いのなかで、一度もそんなこと言われたことがなかったから驚いたな。

— 『週刊新潮』

どれほど愛する人であっても、必ず別れはやってきます。

「独生独死 独去独来」――人生の厳粛な事実と、幸福への転換点

お釈迦さまは『大無量寿経』というお経の中に、人生の真実をこう説かれています。

独生独死 独去独来

— 『大無量寿経』

我々人間は、独りで生まれ、独りで死んでいく。独りでこの世にやって来て、独りでこの世を去っていく。これが人生のありのままの姿なのだ、と。

もちろん、人生には多くの出会いがあり、愛する人と家庭を築く幸せもあります。しかし、どんな素晴らしい出会いにも、やがて別れが訪れます。特に「死別」は、深く愛する人であればあるほど、耐えがたい苦しみとなって襲いかかります。

その時私たちは、人生とは本来独りであり、家族や財産、これまで築き上げてきた全てのものと別れて、独りで去っていかねばならないという事実に直面させられるのです。

実はこのことに本当に気づかれた人が、仏法を聞かれたならば、本当の幸せになれるんです。

「仏の慈悲は、苦ある者に偏に重し」――救いはなぜ苦しむ人にこそ重くかかるのか

お釈迦さまは、こうも仰っています。

「仏の慈悲は、苦ある者に偏に重し」

仏さまの慈悲は、苦しみ悩んでる人に重くかかる、先にかかる、ということです。

仏さまはもちろんすべての人を平等に救いたいと願っておられますが、中でも孤独に打ちひしがれ、涙している人、そういう人こそ真っ先に救いたい。それが仏さまの大きな慈悲というものなのです。

仏教で「慈悲」とは「抜苦与楽」を意味します。親鸞聖人は『教行信証』にこう記されています。

苦を抜くを「慈」と曰う。 楽を与うるを「悲」と曰う。

— 『教行信証』 法蔵館『真宗聖典』405ページ

人々の苦しみを抜き取り(抜苦)、本当の幸せを与える(与楽)。それが仏さまの慈悲の心です。 仏の大慈悲に差別は一切ありません。しかし、より深く苦しむ人に重くかかるのです。

それは、人間の医師の心にも通じるかもしれません。待合室に多くの患者がいても、一刻を争う救急患者が運ばれてくれば、その人を真っ先に救おうとするで しょう。

いわんや仏さまの慈悲は、苦しみ悩める人を決して見捨てません。そういう人こそ、仏の慈悲が届くべき第一の相手なのです。

「悪人正機」の真意――苦しみの重い人こそ、救いの正客である

この教えは、「善人よりも悪人」が救われる、と言い換えることもできます。

苦しみの重い人こそ「悪人」であり、そういう悪人こそ先に救いたいというのが「悪人正機」の教えです。

苦しみの重い人、今まさに苦しんでいる人こそ、仏さまが救いたいと願われる、お目当ての相手(正客)なのです。これが仏教であり、仏の慈悲の核心です。

孤独を感じるあなたへ―「そういう人こそ幸せになれる」

孤独を感じられているということは、それだけ人生真摯に向き合って生きていらっしゃると、こう言ってもいいでしょう。だからこそ人生の孤独を痛切に感じる。真面目な方ほどそうだと思います。

そういう人こそ幸せになれる。そういう人こそが、実は仏さまの深い慈悲が重くかかっている人、先に救いたいと仏が願ってらっしゃる方といってもいいですね。

今、孤独に悩んでいる方は大変多いと思います。もちろん、いたわりや思いやりという人の心の温かさは大事です。

しかし、人間の慈悲ではやはり限界がある。どんなに愛する人とも、最後は死によって別れていかなければならないからです。

だとすれば、死によっても決して崩されることのない、本当の幸せを求めてみませんか。 それこそが、仏の慈悲によるものなのです。

ですから今、孤独に悩んでらっしゃる方は、ぜひとも仏法に耳を傾けていただきたい。そして幸せになっていただきたい。仏さまの大きな慈悲にあっていただきたいと、心から願っています。

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参考動画: 【孤独な人こそ幸せになれる】仏の慈悲は、苦しんでいる人に重くかかる