きれいごとではなかった。「人命は地球より重い」が本当になる、絶対の幸福とは
戦争や悲惨なニュースに触れるたび、「人命は地球より重い」という言葉が、どこか空々しく聞こえることはありませんか? その虚しさは、あなただけが感じているものではありません。しかし、その言葉が揺るぎない真実となる「人生の目的」が存在するとしたら、どうでしょう。この記事では、なぜ仏教の教えによってのみ「人命は地球より重い」ことが本当になるのか、そして、親鸞聖人が明らかにされた「絶対の幸福」の正体について、分かりやすく解説していきます。
「人命は地球より重い」…でも、心からそう思えますか?
空しく響く言葉と、ダッカ事件の重い決断
「人命は地球より重い」
私たちは、この言葉を何度も耳にしてきました。命の尊さを訴える、絶対的な正しさを持った言葉のはずです。
しかし、連日報道される戦争やテロのニュースを前に、この言葉がどこか遠く、空々しいものに聞こえてしまうのは、私だけではないでしょう。
かつて、この言葉が日本中を駆け巡った事件があります。1977年の「ダッカ日航機ハイジャック事件」です。
テロリスト集団「日本赤軍」は、乗客の命と引き換えに、仲間の解放と莫大な身代金を要求しました。
当時の福田赳夫首相は、「超法規的措置」として犯人の要求を飲みます。その決断の理由として語られたのが、「人の命は地球より重い」という言葉でした。
この決断は、テロに屈したと世界中から大きな批判を浴びました。
果たして、この言葉は国家の決断を正当化するための「建前」だったのでしょうか。それとも、私たちがまだ知らない、深い真実が隠されているのでしょうか。
この言葉の本当の意味を知る鍵は、仏教にあった
実は、この問いへの答えは、2600年前に説かれた仏教にありました。
仏教の教えの入り口に、私たちの人生の根本を問いかける、次のような有名な言葉があります。
人身受け難し、今已に受く 仏法聞き難し、今已に聞く 此の身今生に於いて度せずんば、 更に何れの生に於いてか此の身を度せん
この『帰敬文』は、
- 人間に生まれること
- 仏法を聞くこと
がいかに難しく、有り難いことであるかを教えています。
そして、この二つの類まれな縁が重なった「今」を逃せば、二度と救われるチャンスはないと警告しているのです。
なぜ私たちは命の価値を実感できないのか?ブッダが示す「二つの難関」
『帰敬文』が示すように、私たちは「二つの大きな難関」を突破して、今ここにいます。この事実を知ることから、命の本当の重みを理解する旅は始まります。
第一の難関:アリが2京匹いる中の1人(人身受け難し)
まず、「人身受け難し」とは、人間に生まれることが、いかに難しいかということです。
お釈迦さまはこれを「盲亀浮木(もうきふぼく)の譬え」で教えられました。
これは、百年に一度だけ水面に顔を出す目の見えない亀が、大海を漂う一本の流木に空いた穴に、頭をひょいと入れることがあるだろうか。それよりも難しいのが、人間に生まれることなのだ、という譬えです。
もっと身近な例で考えてみましょう。地球上にいるアリの数は、約2京匹と言われます。1京は1兆の1万倍。対して、人類の人口は約80億。
単純計算でも、アリは人間の250万倍も多いのです。
これはアリと比べただけです。昆虫、魚、鳥、獣……地球上には3000万種以上の生命がいるといわれます。 その中で、私たちが「人間」として生を受けたのは、まさに、無いことが起きたとしか言いようがありません。
第二の難関:80億人の中で真実に出会えるか(仏法聞き難し)
そして、天文学的な確率を越えて人間に生まれても、次に「仏法聞き難し」という、さらに高いハードルが待っています。
仏法、つまりブッダの本当の教えを聞くことは、人間に生まれること以上に難しいのです。
世界の人口80億人のうち、キリスト教徒が約22億人、イスラム教徒が約18億人。この二つで、すでに世界の半数を占めます。
仏教徒は世界に約4億人と言われますが、その中でも、チベット仏教や、上座部仏教(小乗仏教)、禅宗、天台宗、真言宗など、実に多くの宗派に分かれています。
では、お釈迦さまが本当に説きたかった教えとは、一体何だったのでしょうか。
親鸞聖人が指し示す、「仏教の結論」とは
釈迦がこの世に現れた目的は「阿弥陀仏の本願」を説くため
親鸞聖人の『正信偈』の中に、「これ一つが仏教の結論だ」と断言されている箇所があります。
【原文】 如来所以興出世 唯説弥陀本願海 ----- 如来世に興出したまう所以(ゆえん)は、 唯、弥陀の本願海を説かんがためなり。
【意訳】 釈迦如来(お釈迦さま)がこの地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ただ阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであった。
「仏法」といっても、その結論は「阿弥陀仏の本願」一つであると、親鸞聖人は喝破されています。
いろいろな宗派があるなか、お釈迦さまが本当に説かれたかったことを親鸞聖人がズバリ断言されている、驚くべき言葉です。
聞けるのは難中の難 - ヒマラヤから針の穴に糸を通す譬え
この阿弥陀仏の本願を聞くことが、いかに有り難く、難しいことか。 高森顕徹著『人生の目的』には、ブッダの譬えが紹介されています。
ブッダは、阿弥陀仏の本願を聞こうと思う心の起きる不思議さを、こんな例えで説かれています。 「ヒマラヤ山の頂上から糸を垂らして、その糸を 麓の針の目を通すよりも難しいことなのだよ」 と言われています。
8000メートルを超えるヒマラヤの山頂から垂らした糸を、麓にある小さな針の穴に通す。それは、絶対に不可能だと誰もが思うでしょう。
しかし、私たちが阿弥陀仏の本願を聞かせていただくご縁は、それ以上に有り難い、あり得ないことなのです。
“南無阿弥陀仏”を頂くための命
では、阿弥陀仏の本願を聞いて救われるとは、どういうことなのでしょうか。 それは、「南無阿弥陀仏」を受け取ることだと蓮如上人は教えてくださっています。
蓮如上人の断言「すべての教えは、この六字を信じさせるため」
蓮如上人は、お手紙(『御文章』)の中で、こう仰っています。
一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんが為なり。
お釈迦さまが一生涯に説かれた、膨大な数のお経すべてのこと。
これも驚くべき断言です。お釈迦さまが説かれた七千余巻もの膨大なお経は、すべて、私たちに「南無阿弥陀仏」の六字を信じさせる(受け取らせる)ためだった、というのです。
猫に小判? 私たちには計り知れない「南無阿弥陀仏」の絶大な価値
いや、「南無阿弥陀仏」と聞いても、ただのおまじないや、単なる文字にしか思えないかもしれません。
しかし蓮如上人は、その六字にこそ、この上なく広大で底知れない、私たちを幸せにする力が収まっていると教えられています。
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。
「そんなわけあるか」と思うのは、猫に小判の価値が分からないのと同じで、私たち凡夫の浅い知恵では、その本当の価値を計り知ることができないだけなのです。
信心とは何か? それは阿弥陀仏から「南無阿弥陀仏」をいただくこと
この「南無阿弥陀仏」の名号を頂くことを、他力の信心を獲るというのです。先ほどの、『御文章』の続きには次のように書かれています。
されば信心を取るというも、この六字のうちに籠れりと知るべし。更に別に信心とて、六字の外にはあるべからざるものなり。
「信心」をとるというのも、この「南無阿弥陀仏」の六字をいただくこと以外にはないのだと、書かれてあります。
この信心をいただくことを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。
その時、「人命は地球より重い」と心から言える
一生どころではない、永遠の生命の目的がハッキリする瞬間
阿弥陀仏から「南無阿弥陀仏」をいただき、信心獲得したその一念(一瞬)に、私たちの心の闇は破られ、人生の目的が完成します。
その時、どうなるのか。
「人間に生まれて、本当によかった」
「この世限りの人生の目的ではない、永遠の生命の目的が、この私にあったのだ」
と心の底から、生命の歓喜が噴き上がってくるのです。
そして、この身に救われた時、「人命は地球より重い」という言葉が、単なる形容詞でも建前でもなく、紛れもない真実であったと、魂で知らされるのです。
この「絶対の幸福」の身になるために、私たちは計り知れない確率を乗り越えて人間に生まれ、仏法を聞かせていただくのです。 その本当の重みが、仏法を聞いた一念でハッキリと知らされます。
チャンスは今しかない - ブッダがあなたに送るメッセージ
記事の冒頭で紹介した『帰敬文』の最後は、こう結ばれていました。
此の身、今生に於いて度せずんば、 更に何れの生に於いてか此の身を度せん。
「生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法に今出会えたのだ。このチャンスを逃したら、一体いつ救われるというのか。未来永遠に救われるチャンスは今しかないのだ」
これは、2600年の時を超えた、ブッダからあなたへのメッセージです。
ぜひ、この有り難いご縁を大切に、本当の仏法を聞き抜き、あなたの人生の目的を達成していただきたいと思います。
参考動画: 【帰敬文】人命は地球より重い|南無阿弥陀仏を受け取った時、本当だったとハッキリする