なぜ、誰といても寂しいのか? 人生の「孤独の正体」と、お釈迦さまが説かれた唯一の解決策
家族や友人に囲まれていても、ふと心が通わない寂しさを感じませんか?「これだけは誰にも言えない」と、胸の内に秘めた思いがあるからかもしれません。この記事では、お釈迦さまの教えに基づき、多くの人が抱える孤独感の本当の正体を解き明かし、その寂しさから根本的に解放される唯一の道筋を分かりやすく解説します。
なぜ? 家族や友人がいても埋まらない「心の距離」
人生はよく旅に例えられます。それは平坦な道のりではなく、苦しい「上り坂」もあれば、楽しい「下り坂」もある。そして、予期せぬ「まさか」という坂が突然現れることもあります。
能登半島地震のような災害は、まさにその「まさか」でありますが、災害時はその坂を乗り越えようと、多くの人が助け合い、国を挙げてあるいは県を挙げてサポートをします。これは当然のことです。
しかし、衣食住といった物理的な不自由さを解消することはできても、人の心を本当に救うことはできるのでしょうか。
かつて阪神大震災で、瓦礫の下から九死に一生を得た方が、仮設住宅での孤独に耐えきれず、「家族と一緒に死んでおけばよかった」と書き残し、自ら命を絶たれたことがありました。
私たちは、たとえ家族や親友と会話を交わしていても、無意識に「ここまでなら話せる」という一線を引いています。腹を割って話すといっても、腹を割れるところまで割って話をしているだけで、心の底には、誰にも言えないでいる本当の気持ちがある。
だからこそ、誰かと一緒にいても、ふと埋めがたい「心の距離」を感じてしまうのです。
孤独感の正体は、心にある「秘密の蔵」
誰にも言えない、わたしたちの本心とはいったいどんなものか。 お釈迦さまは、それは「秘密の蔵」のような心だと教えられています。
誰にも打ち明けられない、また打ち明けても到底理解されないだろうと思っている本心。過去の行いが収められている蔵のような心。蔵の中が真っ暗なように、自分自身でさえ、その蔵に何をしまい込んでいるのか、ハッキリはしていません。
「これだけは墓場まで持っていく」と固く誓っている秘密が、誰の心にも一つや二つはあるでしょう。
それは、法律や道徳に触れるようなことだけではありません。 ある真面目な奥さんが、「どうしても自分の子供を好きになれないんです」と、涙ながらに告白されたことがありました。我が子を愛したいのに愛せない。そんな苦しみを誰に理解してもらえるでしょうか。
こうした、誰にも見せられない、分かってもらえない本心を閉じ込めている。いや、実は私たち自身にもよく分かっていない自分の本心が「心の蔵」です。
あなたも知らない「本当のあなた」とは? ソクラテスも投げかけた問い
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「汝自身を知れ」という有名な言葉を残しましたが、これは「自分を知ることがいかに難しいか」を物語っています。私たちは、自分の心でさえ本当には分かっていないのです。
いま20歳の人なら、生まれてから20年間続いている「心」というものがあるわけですが、実は私たちの心というのは、この世に生まれてからだけのことではないのです。
ブッダが教えられる秘密の蔵というのは、生まれてくる前、過去世からずーっと続いている永遠の生命のことなのです。 それは、また今生この人間としての肉体が尽きたあともずーっと続いていく。
その永遠の生命の実態まで知らないと、「汝自身」を知ったことにならないのです。
その「秘密の蔵」ごと、あなたを救う唯一の存在
誰にも打ち明けられない、自分でもよく分かっていない「心の蔵」。 その中身をすべて知り尽くした上で、そのまま救い摂ってくださる方が「阿弥陀仏」という仏さまです。
この阿弥陀仏の救いにあうことによって、私たちは、本当の幸せになることができるのです。 本当の魂の理解者を、そこで得るのです。
そして阿弥陀如来の温かい御心に包まれ、阿弥陀さまにいわば抱きしめられるのです。
親鸞聖人が「まことだった!」と叫んだ摂取不捨の救いとは?
私たちの心(魂、永遠の生命)が、阿弥陀如来にガシッと摂め取っていただける。 これを、「摂取不捨」といいます。
「ガシッと摂(おさ)め取って、決して捨てない」という意味。
親鸞聖人の『浄土和讃』 には次のように書かれています。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
- 十方微塵世界の: 大宇宙の
- 念仏の衆生を: 阿弥陀仏の本願に救い摂られた人を
- 摂取してすてず: 摂め取って決して捨てない
この「摂取」について、親鸞聖人は左訓(解説)をつけておられます。
摂めとる ひとたびとりて永く捨てぬなり
ひとたびガシッと摂め取って永く捨てない。永遠に捨てない。これが摂取不捨ということだと教えられています。 また、続けて
摂はものの逃ぐるを追わえとるなり 摂はおさめとる 取は迎えとる
と書かれ、「摂」とは、逃げ回っている者を、阿弥陀仏の方から追いかけて、追いかけて、救ってくださることだ、と教えられています。
この逃げ回っている者とは、なかなか仏法を聞こうとしない、欲や怒りや妬みそねみのために、阿弥陀仏の本願を疑い、はねつけてしまう私たちのことです。
そんな者を、「おさめ・たすけ・すくう」のが阿弥陀仏である、と蓮如上人も教えておられます。
されば、阿弥陀という三字をば、おさめ・たすけ・すくうと訓める謂あるが故なり。
追いかけて、追いかけて、救ってくだされた感動を、親鸞聖人は次のように叫ばれています。
【原文】 誠なる哉や、摂取不捨の真言、超世希有の正法。聞思して遅慮すること莫れ。
【意訳】 まことだった、本当だった! 阿弥陀仏の「必ず救う」というお約束、ウソではなかった。全く世の常識をはるかに超えた、大宇宙に2つとない希有の正法である。聞きなさい、この教えを真剣に聞きなさい。モタモタしてはなりませんよ。
聞く一つで救ってくださる阿弥陀仏の本願。遅慮するなよ、命短し、仏法聞けよと親鸞聖人は勧めておられるのです。
まとめ: 本当の自分を知る旅への第一歩
日本中、また世界中には、さまざまな問題があります。
信じては裏切られ、「自分は独りぼっちだ」と、涙を流していらっしゃる方もたくさんおられることでしょう。
人間同士、相手の心を理解し合うというのは、難しいものがあり、ましてや、仏教でいう永遠の生命を理解することは自分自身にもできません。
しかし、誰にも打ち明けられない、自分でもよく分からない、そういう私たちの心をすべて理解し、 おさめとってくださる。これが阿弥陀仏の救いなのです。
親鸞聖人の「聞思して遅慮することなかれ」のお勧めの通り、仏教を真剣に聞いてみる。それが、自分というものを本当に理解する、第一歩となるでしょう。
参考動画: 人生は寂しい独りぼっちの旅│誰にも言えない〇のような心がある【お釈迦さまの教え】