浄土真宗の「正しい教え」とは何か?唯一の指針「本願成就文」に立ち返れ
現代において、浄土真宗の教えとして語られるものの中には、残念ながら親鸞聖人の本当の教えとは異なるものが数多く見受けられます。では、何が「本当の親鸞聖人の教え」であり、何がそうでないのか。その唯一の判断基準こそが、阿弥陀仏の本願(誓願)を解説なされた、お釈迦さまの「本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)の教え」です。この記事では、浄土真宗の教えは「本願成就文」ただ一つに依るべきであるという一点を明らかにし、そこから導かれる「正しい本尊」と「真実の救い」について解説します。
浄土真宗の時空を超えた唯一の指針「本願成就文」
阿弥陀仏のご本願とは、大宇宙のすべての仏方の本師本仏(師匠であり根本の仏)であられる阿弥陀仏が、すべての人(十方衆生)を「信楽(しんぎょう)」(絶対の幸福)に救うというお約束のことです。
この「信楽」とは、私たちが自分の力で起こす「信心」ではありません。私たち凡夫にはまことの心がないため、どれほど何かを信じようと努力しても、本当の安心・満足は得られません。
信楽とは、阿弥陀仏から賜るまことの心(他力の信心)であり、それを頂いて初めて私たちは本当の幸せ(絶対の幸福)になれるのです。
釈迦の出世の本懐は「弥陀の本願」を説くこと
地球上に現れた唯一の仏であるお釈迦さま(釈迦牟尼如来)は、阿弥陀仏のお弟子です。弟子の使命は、師匠の心を明らかにすること以外にありません。お釈迦さまが膨大な一切経を説かれた目的も、ひとえに師匠である阿弥陀仏のご本願を説き明かすためでした。
親鸞聖人は、
【原文】 如来所以興出世 唯説弥陀本願海
【書き下し文】 如来、世に興出したもう所以は、 唯、弥陀の本願海を説かんとなり
と断言されています。 これは釈迦如来だけでなく、大宇宙のすべての仏方にも共通する使命です。すべての仏さまが、本師本仏である阿弥陀仏の本願(本心)を説くことだけを使命とされているのです。
なぜ「名号本尊」でなければならないのか
では、どうすれば阿弥陀仏から「信楽(他力の信心)」を賜り、絶対の幸福に救われるのでしょうか。その具体的な方法を、お釈迦さまが説き明かされたのが「本願成就文」です。
親鸞聖人は、こう断言されています。
横超とは、すなわち願成就・一実・円満の真教、真宗これなり
「本願成就文」は、阿弥陀仏の本心(18願)を明らかにする、時空を超えた唯一の指針であり、完全無欠でゆるぎない真実の教えである。
その「本願成就文」には、
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念
「諸有衆生(あらゆる人々)」が、「聞其名号(其の名号を聞く)」一つによって、「信心歓喜(信楽を得て、絶対の幸福になる)」ことができる。
それは「乃至一念(あっという間もない一瞬)」のことである、と説かれています。
ここで最も重要なのは、「どうすれば救われるのか」について、「其の名号(南無阿弥陀仏)を聞く一つで」と明確に示されている点です。
「信心歓喜」という「信楽(他力の信心)」の本体は、南無阿弥陀仏の「名号」そのものなのです。
したがって、浄土真宗の御本尊は、この「名号(南無阿弥陀仏)」でなければなりません。
親鸞聖人が初めてなされたこと
仏教史上、初めて「名号」を御本尊とされたのは親鸞聖人です。それまでは木像や絵像が本尊とされていましたが、親鸞聖人はこの「聞其名号」という本願成就文の明確な根拠に基づき、浄土真宗の本尊を「名号」と定められました。
これは親鸞聖人の「独創」ではなく、阿弥陀仏の本願を、明らかにされたお釈迦さまの教え(本願成就文)に基づく御本尊なのです。
木像本尊の誤り:「木像よりは絵像、絵像よりは名号」
しかし今日、浄土真宗のほとんどの寺が、木像や絵像を本尊としている現状は、「本願成就文の教え」に明らかに反しています。深く憂慮すべきことです。
室町時代、浄土真宗(本願寺教団)を大発展させ、中興と仰がれる蓮如上人は、最も尊ぶべき本尊ついて、厳格なご指南をなされています。
他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。
浄土真宗以外の流派(他流)では金ぴかの木像を最上とするが、当流(親鸞聖人の教え)においては「名号」こそが最も正しい本尊である、と他流と比較して明確に断言されています。
こんな明らかなご教示がありながら、「木像でも絵像でも名号でも、どれでもよい」と言い張るするのは、蓮如上人のお言葉の意を正しく汲んでいるとは到底言えません。
近年、龍谷大学の教授が監修した『イラストで知る浄土真宗』という本には、以下のように明記されています。
浄土真宗では仏像ではなく名号が本尊。 (中略) 親鸞自身が名号を礼拝の対象とし、門弟が本尊授与をのぞんだときには名号を本尊として与えた。 (中略) 親鸞は形象の阿弥陀仏(つまり仏像)の礼拝にも否定的だった。 (中略) それは仏像を見て浄土に生まれることを願うのは観仏という自力の行であって、他力の念仏者がすべきことではないからだという。
こういう心ある学者がおられることも、付記しておきます。
「だんだん救われる」は本願成就文に反する異安心
また、今日の浄土真宗が、本願成就文に反している、もう一つの重大な誤りが「弥陀の救いはだんだんハッキリしていくものだ」という説教です。
本願成就文には、救いは「信心歓喜 乃至一念」と明示されています。
「一念」とは、時間のきわまり、あっという間もない一瞬のことです。南無阿弥陀仏のいわれを聞き、阿弥陀仏の本願に対する疑いが晴れた、その瞬間に、絶対の幸福(信心歓喜)になるのです。
「南無阿弥陀仏」という仏智(仏の智慧)を一念で賜るからこそ、私たちの苦悩の根元「無明の闇(むみょうのやみ)」が破られるのです。
決して、だんだん救われていくのではありません。
相対の世界から絶対の世界に入るには、「一念」でしかあり得ないのです。
弥陀の救いは「横超(おうちょう)」
親鸞聖人は、阿弥陀仏の救いを「横超」と仰いました。
仏教で説かれる「さとり」には52の位がありますが、一番低下のわれわれ凡夫が、無上の仏のさとりに至るには、通常、一段一段、途方もない時間をかけて修行を重ねるしかありません。
しかし、阿弥陀仏の救い(横超)は、この世で、生きているただ今、一念で51段を高跳びし、仏になることが定まった身(正定聚)になる救いです。
蓮如上人も「一念発起 入正定之聚」と「聖人一流の章」に仰る通り、これは「一念」の早業であり、極速の救いです。
51段もの位を一気に飛び越えるほどの劇的な救いであるにもかかわらず、「ハッキリしない」「だんだん救われていく」「救われてもぼんやりしている」「救われても喜べるものじゃない」などということがあるでしょうか。
それは本願成就文にも、親鸞聖人・蓮如上人の教えにも、明確に反する「異安心(いあんじん)」です。
西へ行く人に順えば西へ行くなり。東へ行く人に順えば東へ行くなり。信なき悪知識に順えば地獄へ堕つるなり。善知識に順えば仏にあえるなり。
仏教では、教えを説く者を厳しく選びなさいと誡められています。本願成就文の通りに説く者が「善知識(ぜんちしき)」であり、それに反して「だんだん救われる」などと説く者は「悪知識(あくちしき)」です。悪知識に従えば、救いから遠ざかってしまいます。
「ハッキリする」ことの本当の意味
ここで誤解のないように申し添えますが、「救われたことがハッキリする」というのは、「何年何月何日何時何分に救われた」という年月日時を記憶することでは全くありません。救いは一念の出来事であり、日時を記憶することに何の意味もありません。
また、「どこで、どのような状況で救われたか」といったことも一切関係ありません。
「ハッキリする」とはただ一点、阿弥陀仏の本願に対する疑いが、一念で破られ、苦しみの根本である無明の闇が晴れて、「信楽(他力の信心)」を賜ったことがハッキリする、ということです。
親鸞聖人は、「信受本願 前念命終 即得往生 後念即生」と仰いました。
本願を信受した一念に、自力の心(疑情)が死に、他力の金剛心(信楽)に生まれ変わる。 これほど大きな心の大転換が、ハッキリしないはずがありません。
結論:すべての基準「本願成就文」に立ち返るべき
浄土真宗の教えは、どこまでも 「本願成就文」に説かれているかどうかが基準です。
「だんだん救われる」という教えは、一念の救いを説く本願成就文に明確に反する異安心です。
「木像本尊」もまた、「聞其名号」によって救われるという本願成就文の教えと、それに生涯忠実であられた親鸞聖人・蓮如上人のご教示に反しています。
もう一度、繰り返します。現在の浄土真宗が、最も大切な本尊について、「本願成就文の教え」と異なる木像本尊にしている現状は、全くの誤りなのです。
阿弥陀仏の本願に救われ、本当の幸せ(信楽)になる方が一人でも多く現れるように、まず時空を超えた唯一の真実の指針である「本願成就文」に、東西本願寺はじめ真宗十派(現在は十三派)が立ち返ることを願ってやみません。
参考動画: 「本願成就文の教え」が、本当の浄土真宗かどうかを判断する基準│正しい本尊は、南無阿弥陀仏の御名号