あなたの苦しみは「人生最大の転機」かもしれない。「もう死にたい」と生きる意味が分からなくなる日に、知ってほしい仏教の答え。
「もう、こんな人生なら終わらせてしまいたい」 耐え難い苦しみの中で、そう感じてしまう夜はないでしょうか。フランスの作家カミュが「真に重大な哲学上の問題は自殺だ」と語ったように、これは古今東西、人間にとって最も根源的な問いなのでしょう。しかし、もしその苦しみが、人生を終わらせるための合図ではなく、あなたがまだ知らない「本当の幸せ」へと向かうための、最も重要な「転機」だとしたら、どうでしょうか。この記事は、あなたがその腕に抱えている苦しみが、実は人生の本当の目的を果たす上で大きな意味を持つことをお話ししたいと思います。
「死にたい」という問いは、決してあなた一人だけのものではない
「人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」
これは、ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家アルベール・カミュが遺した言葉です。彼は、哲学における真に重大な問題は「自殺」というテーマ一つしかない、とまで言い切りました。
また、傑作『人間失格』で知られる作家の太宰治も、その生涯を通じて「生きることの意味」に苦しみ続けました。彼は代表作の一つである『斜陽』の中で、登場人物にこう言わせています。
生まれて来てよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。
しかしその一方で、「僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです」とも書き残し、その苦悩の深さをうかがわせます。
「死にたい」と思ってしまうほどの苦しみは、決して特別なものではなく、人間にとって避けては通れない根源的な問いなのでしょう。
歌舞伎俳優の市川猿之助さんが「自殺が悪いことだとは考えていません」「私たちは輪廻転生を信じています」と語ったことが大きく報道されたことがあります。才能あふれる方がそう語られるのを聞くと、「そうか、死んでもまたやり直せるのなら、それも一つの選択肢なのかもしれない」と思ってしまう人がいても不思議ではありません。
しかし、仏教を学んできた者として、私はその考えに重大な誤解があることをお伝えしなければならないと思っています。
なぜ仏教は、自殺を「愚かな行為」と教えるのか
まず大前提として、仏教では自殺をキリスト教などのように「悪」や「罪」として断罪することはありません。だからといって、決して肯定もしていません。お釈迦さまは、自ら命を絶つことを「大変愚かな行為だよ」と教えられています。
なぜ、愚かなのでしょうか。それは、自殺が苦しみの解決にならないばかりか、かえってさらに重い苦しみを自ら招く行為だからです。 そのことを、お釈迦さまは一つの譬え話で教えてくださっています。
昔、ある牛が毎日、荷物を満載した重い荷車を引いていました。 「どうして私は、毎日こんなに苦しまなければならないのだ。そうだ、私を苦しめているのは、この荷車だ。こいつを壊してしまえば、きっと楽になれる」 そう考えた牛は、大きな石に荷車を激しくぶつけ、木っ端微塵に壊してしまいました。 「やったぞ!これで解放された!」 牛が喜んだのも束の間、それを見た飼い主は「なんと乱暴な牛だ。木の荷車ではダメだ」と言い、今度は鋼鉄でできた、以前とは比べものにならないほど重い荷車を牛につないでしまったのです。 牛は、以前の何十倍、何百倍もの重さの荷車を引くことになり、「ああ、こんなことなら、荷車を壊さなければよかった」と後悔しましたが、もう後の祭りでした。
この話は、私たちに何を教えているのでしょうか。 牛は、自分を苦しめている本当の原因が別にあることに気づかず、目先の「木の荷車」だけを壊してしまいました。
私たちも同じように、人生の苦しみの原因を「この肉体」にあると勘違いし、肉体さえ滅ぼしてしまえば楽になれると思ってしまいがちです。しかし、それは苦しみの本当の原因ではありません。この牛が鋼鉄の荷車を引くことになったように、自ら命を絶った後には、今とは比較にならないほどの大きな苦しみが待っていると、お釈迦さまは教えられているのです。
死を選ぶ前に、答えを出すべき「たった一つの問い」
「では、どうすればこの苦しみから本当に解放されるのか」
これほど悩み、もがいているにもかかわらず、答えが出ないのはなぜでしょうか。
それは、人生の「真」と「仮」の区別が、私たちにはついていないからだ、と親鸞聖人は言われています。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す
「真仮を知らざる」とは、真(=生きる目的)と仮(=趣味や生きがい、目標)との違いを知らない、ということです。 人生の目的を知らないから、“人間に生まれてよかった”という生命の歓喜がないことを、「如来広大の恩徳を迷失す」と言われています。
どういうことかと申しますと、私たちが朝から晩まで考え、悩んでいることは、そのほとんどすべてが「どう生きるか」という「仮(=手段)」のことではないでしょうか。
どの大学に入り、どの会社に就職するか。誰と結婚し、どんな家を建てるか。会社の業績をどう上げるか。老後はどう過ごし、何を楽しみに生きていくか。
これらはすべて、私たちが死ぬまでの間をどう過ごすかという、生きるための「手段」です。
しかし、「手段」が意味を持つのは、「目的」があってこそです。 目的地がハッキリして初めて、そこへ向かう手段が決まるように、人生の「目的」がハッキリしてこそ、私たちの日々の営みは、本当の意味で輝き始めます。
「死んではならない」と私が強くお伝えする本当の理由は、まさにここにあります。それは、この命が、その尊い「人生の目的」を果たすために与えられた、かけがえのないものだからです。その目的が果たされるまでは、決して自ら手放してはならないと、仏教では教えられているのです。
とはいえ、「人生の目的」と言われても、すぐにはピンとこないかもしれません。
その目的がいかに尊いものであるかをお話しする前に、まず、その目的を果たすことができる唯一の境界である「人間」として生を受けたこと自体が、どれほど有り難く、計り知れない価値のあることかを知っていただく必要があります。
あなたがまだ知らない、人間に生まれたことの“天文学的な価値”
そもそも、私たちは、自分が人間に生まれてきたことを、当たり前のように感じていないでしょうか。もしかすると、「親ガチャ」という言葉のように、「もっと違う家に生まれていれば…」と不満に思うことさえあるかもしれません。
しかし、お釈迦さまは「人身受け難し、今已に受く」と教えられています。「人間に生まれることは、非常に難しく、有り難いことなのだ。その命を今、私たちは受けているのだ」と、その喜びを語られているのです。
その有り難さを、お釈迦さまは「盲亀浮木(もうきふぼく)の譬え」で示されています。
果てしなく広い大海の底に、目の見えない一匹の亀が住んでいる。この亀は、百年に一度だけ、海面に顔を出す。 その広い海には、一本の丸太ん棒が浮いており、風のまにまに漂っている。丸太の真ん中には、亀の頭がちょうど入るくらいの小さな穴が開いている。 「さて、この目の見えない亀が、百年に一度浮かび上がった拍子に、あの丸太の穴にひょいと頭を入れることがあるだろうか」
お釈迦さまにこう問われた弟子の阿難は、「とても考えられません」と答えました。しかし、「絶対にないと言い切れるか」と重ねて問われると、「何億年かける何億年という長い間には、一度くらいはあるかもしれませんが、無いと言ってもいいほど難しいことです」と答えました。
すると、お釈迦さまはこう仰ったのです。 「よいか、阿難よ。私たちが人間に生まれるということは、この目の見えない亀が丸太の穴に頭を入れることよりも、さらに難しいことなのだ。有り難いことなのだよ」と。
最近の調査では、地球上に生息するアリの数は「2京匹」いるそうです。「京」は「兆」の一万倍ですから、想像もつかない数です。私たち人間の人口は約80億ですから、アリと人間だけでも、私たちはとてつもない確率で人間に生まれていることが分かります。 地球上には、アリだけでなく、昆虫や魚、鳥や獣など、無数の生き物がいます。それらの命に生まれず、人間に生まれた。これはまさに、天文学的な確率で与えられた命なのです。
さらに、平安時代の高僧である源信僧都は、その有り難さを、苦しみの世界と比較してこう教えられています。
まず三悪道を離れて、人間に生るること、大なるよろこびなり。身は賤しくとも、畜生に劣らんや。家は貧しくとも、餓鬼に勝るべし。心に思うこと、かなわずとも、地獄の苦に比ぶべからず。
たとえ社会的な身分が低くても、弱肉強食の畜生界よりはるかにましだろう。たとえ家が貧しくても、食べ物を目の前にしても食べられない餓鬼の世界よりは幸せだろう。たとえ人生、思い通りにならないことが多くても、想像を絶する地獄の苦しみとは比べものにならないではないか、と。 人間に生まれたことは、それ自体が大変な喜びなのだと示されています。
あなたの苦しみは、人生を終わらせる合図ではなかった
「これほど有り難い人間に生まれたのに、なぜこんなにも苦しいのか」
そう思われるかもしれません。楽しいことに溺れ、人生の苦しみに無自覚なまま日々を過ごす人も多い中で、あなたが今感じているその深い苦悩は、誰よりもあなたが、人生の真実から目をそむけず、深く向き合っている証拠ともいえます。
先ほどの源信僧都は、続けてこう仰っています。
世の住み憂きは、厭うたよりなり
この世が住みづらく、苦しいと感じるのは、実は「早くこの苦しみの世界を厭(いと)い、離れて、本当の幸せを求める縁(たより)としなさいよ」という、仏さまからのメッセージなのだ、ということです。 つまり、あなたが今感じている苦しみや悲しみは、あなたを不幸にするためにあるのではなく、本当の幸せ(人生の目的)に向かわせるための「ご方便」なのです。
では、人生の目的とは何か。 それは、親鸞聖人が明らかにされた「平生業成(へいぜいごうじょう)」という教えに尽きます。 「平生」とは、生きているただ今のこと。「業成」とは、人生の大事業が完成すること、つまり、絶対の幸福になることです。 お金や名誉など、どう生きるかの追求は、どこまでいってもキリがなく続きません。そうではない、いつまでも変わらぬ幸せを絶対の幸福といいます。
そして、この身になれるのは、死んでからではありません。生きている現在ただ今、どんなことにも崩されない、変わらない本当の幸せになれる。これが、私たちが人間に生まれてきた、たった一つの目的なのです。
どんな人も「その人」のままで同じ幸せになれる
「絶対の幸福」と聞くと、何か特別な人だけがなれる世界のように感じるかもしれません。しかし、そんなことは全くありません。
「みんなちがって、みんないい」という言葉があります。本当にその通りで、趣味も個性も、考え方も人それぞれです。その「違い」は、そのままでいいのです。 なぜなら、仏教を説かれたお釈迦さまの先生である、阿弥陀仏という仏が、「どんな人も、そのままで、必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓っておられるからです。 欲が深くても、怒りっぽくても、嫉妬深い心があっても、そんな煩悩にまみれた私たちを、そのまま無条件で救うというお約束です。
親鸞聖人はその世界を、こう教えておられます。
衆水、海に入りて一味なるが如し
様々な川の水は、流れている時は清濁それぞれに違いますが、ひとたび広大な海に流れ込めば、どれも同じ塩味、一つの味になります。 それと同じように、人種や民族、文化、性別、性格や能力、健常者、身障者など、さまざまに違う私たち一人一人が、阿弥陀仏の本願という大海に救い摂られたならば、皆、同じ「人間に生まれてきてよかった」という、一味平等の喜びの世界に出ることができるのです。
おわりに:人生の答えは、仏法に
この記事では、私たちが天文学的な確率で「人間」という尊い命をいただいたこと、そして、あなたが今抱えているその苦しみは、人生を終わらせる合図などではなく、本当の幸せへと向かうための最も重要な「転機」であることを、お話ししてきました。
太宰治が生涯求め続けた「生まれて来てよかった」という生命の歓喜。誰と比較することもない、心の底からの満足。決して色あせることのない、絶対の幸福。
その世界は、決して遠いどこかにあるのではなく、この苦しみを縁として仏法を聞き進んだ先に、間違いなく開かれています。
「憂きことも悲しきことも方便と ただひたすらに二河の道行け」
この歌に詠われているように、あなたの苦しみは、あなたを仏法へと導いてくれた、かけがえのない「方便」なのです。
どこに向かっての方便なのかというと、いつまでも変わらない幸せ、人生の目的に向かってです。 「この身になるための人生だったのか」とハッキリするところまで、このブログや動画を、よく学んでいただければ幸いです。
参考動画: 「人生の目的こそ根本問題」カミュとドストエフスキー│ブッダ釈迦の回答【天上天下唯我独尊】