【衝撃の書】なぜ法然上人の『選択本願念仏集』は、800年前の仏教界を根底から覆したのか?
歴史上、たった一冊の本が、それまでの常識や価値観を根底から覆してしまうことがあります。800年以上前に法然上人によって書かれた『選択本願念仏集』は、まさにそのような「革命の書」でした。当時の仏教界から「すべてを破壊する思想だ」と恐れられ、激しい論争を巻き起こしたこの書物には、一体何が記されていたのでしょうか。この記事では、日本仏教の歴史を塗り替えた衝撃の内容に迫ります。
はじめに:歴史を動かした「一冊の本」
歴史上、たった一冊の本が、それまでの常識や価値観を根底から覆してしまうことがあります。 アインシュタインの相対性理論がニュートン力学の世界観を塗り替えたように、一つの思想が世界の見え方を一変させることがあるのです。
今から800年以上前の日本仏教界にも、まさにそのような一冊の本が現れました。 それが、法然上人(ほうねんしょうにん)の主著『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』です。
私の先生である高森顕徹先生は、この本がもたらした影響を「当時の仏教界に原爆が落ちたような衝撃だった」と表現されます。一体なぜ、この一冊の本がそれほどの「衝撃」をもたらしたのでしょうか。それは、当時の仏教が抱えていた、ある深刻な問題と深く関係していました。
なぜ『選択集』は「衝撃」だったのか?―当時の仏教の“常識”
『選択本願念仏集』が登場する以前、日本の仏教は「聖道仏教(しょうどうぶっきょう)」と呼ばれる教えがすべてでした。天台宗や真言宗、禅宗などがこれにあたります。
これらの教えは、一言でいえば「修行によって自らの力でさとりを目指す道」です。 山に籠もり、厳しい戒律を守り、煩悩と格闘しながらさとりを目指す。それは、極めてストイックで崇高な道ではありましたが、同時に非常に門の狭い教えでもありました。
- 修行の場所:主に山奥の寺院で行われるため「山上の仏教」といわれた。
- 修行者:男性に限られ、女性は山に入ることさえ許されない「女人禁制」だった。
- 必要な資質:厳しい修行に耐えうる強靭な意志と肉体、そして教えを理解できる高度な知恵が求められた。
つまり、当時の仏教の“常識”では、ごく一部の限られたエリートしか救われないということだったのです。 一般の庶民や、日々の生活に追われる人々、そして女性たちは、救いの輪の外に置かれていました。多くの人々が、どこにも救いの道を見出せないまま、深い閉塞感の中にいた時代だったのです。
では、この誰もが息をひそめるような状況を、法然上人はどのように打ち破られたのでしょうか。
法然上人の大転換―「選ぶ」とは「捨てる」こと
親鸞聖人より40歳年長であられた法然上人は、15歳で比叡山に登り、仏道の探求を始められました。そして43歳の時、一切経を五度も読破された末に、善導大師の『観無量寿経疏』にある一節によって、ついに後生の一大事を解決され、阿弥陀仏の本願に救い摂られたのです。
一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故
この阿弥陀仏の本願こそ、すべての人を救う真実の仏教であると確信された法然上人は、京都の東山吉水で、その教えを説き始められます。そこには、これまで仏教から見捨てられていた老若男女、僧侶も在家の者も、あらゆる人々が押し寄せました。
その教えの核心は、のちに『選択本願念仏集』という本にまとめられた通り、「選択」という言葉にあります。「選択本願」とは、阿弥陀仏がすべての人を救うために選び取られた、唯一の本願のことです。
しかし、何かを「選び取る」ということは、同時にそれ以外を「捨てる」ということでもあります。 法然上人は、阿弥陀仏の本願だけがすべての人を救う真実の道であり、それ以外の聖道仏教の教えでは、もはや誰も救われないのだと、一切経を根拠に明確に解き明かされたのです。
それは「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」という、極めて強い言葉で示されました。 阿弥陀仏の本願以外の教えは、すべて「捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげう)てよ」という、あまりにもラディカルな宣言でした。
これまで絶対的な権威を持っていた聖道仏教からすれば、これは自分たちの存在を根底から否定されるに等しい、まさに「危険思想」だったのです。
全仏教界との対論「大原問答」―たった一人で日本中の学者を論破
この法然上人の教えは、当然ながら聖道仏教の宗派から猛烈な反発を招きました。 そのクライマックスともいえるのが、有名な「大原問答(おおはらもんどう)」です。
法然上人53歳の時のことでした。
天台宗の座主であった顕真という人が中心となり、各宗派の代表的な学者たち、いわば当時の仏教界のオールスターが、法然上人をやり込めるために論戦を挑んだのです。
- 聖道仏教側:各宗派の碩学380人、その弟子たちを含めると2000人近くが集結。
- 法然上人側:法論に臨まれたのは、法然上人お一人。
学者たちは口々に問い詰めます。 「法然殿、なぜ阿弥陀仏の本願だけでないと救われないなどと言うのか。我々の宗派の尊い教えでも、さとりは開けるはずだ」
これに対し、法然上人は静かに、しかし力強く答えられました。 「皆様の教えはもちろん尊いものです。しかし、聖道仏教は人を選びます。女人を禁制とし、強靭な肉体と知恵のある者しか修行できないではありませんか」 「しかし、阿弥陀仏の本願は違います。すべての人が救われるのです。出家も在家も、男も女も、知恵のある者も愚かな者も、この愚痴の法然房でさえ救われたのですから」
一切経のすべてが頭に入っておられる法然上人の、淀みなく理路整然としたお答えに、日本中の学者たちはぐうの音も出なくなり、最後はその学識と徳に感服したといわれます。そして、大原の山野には三日三晩、念仏の声が鳴り響いたと伝えられています。
この時から、法然上人は「智慧第一の法然房」とまで讃えられるようになりました。
親鸞聖人が受けた衝撃―「無上甚深之宝典なり」
この法然上人の革命的な教え、そして『選択本願念仏集』に記された仏教の真髄を、誰よりも深く受け止められたのが親鸞聖人でした。
29歳で法然上人のお弟子となり、阿弥陀仏の本願に救い摂られた親鸞聖人は、後に『選択集』の書写(書き写すこと)を許されます。当時、380人余りいたお弟子の中で、これを許されたのはごくわずかでした。
その時の計り知れない喜びと感動を、親鸞聖人はご自身の主著『教行信証』のあとがきに、こう記されています。
真宗の簡要・念仏の奥義、斯に摂在せり。見る者諭り易し。
誠に是れ、希有最勝之華文・無上甚深之宝典なり。
現代語に訳せば、「浄土真宗の肝心かなめ、そして念仏の極意が、この一冊にすべて収まっている。実に、これほど尊く素晴らしい、この上なく奥深い宝の書物はない」という、最高の讃辞です。
私たちが知るべき大切なことは、親鸞聖人の主著『教行信証』は、この法然上人の『選択集』に書かれていることこそが、お釈迦さまが本当に説かれたかった真実の教えなのだということを、さらに詳しく証明するために書かれた書物だということです。
【核心】法然上人の「念仏」と親鸞聖人の「信心」は違うのか?
ここで、多くの方が疑問に思われる点についてお話しなければなりません。 それは、「法然上人の教えと親鸞聖人の教えは違うのではないか?」という問題です。
一般的に、このように言われます。
- 法然上人: 念仏を称えれば救われる(念仏為本)
- 親鸞聖人: 信心一つで救われる(信心為本)
言葉だけ見れば、確かに違って見えます。しかし、親鸞聖人ご自身は「浄土真宗を開かれたのは法然上人である」と生涯仰り続け、師の教えを寸分も違えず伝えているとお考えでした。これは、一体どういうことなのでしょうか。
法然上人の時代、人々は皆、何かの「行」によって助かろうとしていました。座禅や瞑想、様々な修行といった「行」です。そこで法然上人は、それらの行(諸行)に対して、阿弥陀仏の本願に誓われた「念仏」という行を示し、これ一つで救われるのだと教えられたのです。これを行と行を相対する「行々相対(ぎょうぎょうそうたい)」の教えといいます。
ところが、この教えを聞いたお弟子たちの多くが、「なるほど、念仏という行を一生懸命やれば(称えれば)助かるのだな」と、自らの力で称える念仏(自力の念仏)で救われるのだと誤解してしまったのです。
そこで親鸞聖人は、法然上人の本当の御心を明らかにする必要がありました。 法然上人が「念仏為本」と言われたその「念仏」とは、信心決定し、阿弥陀仏に救われた喜びから称えずにおれないお礼の念仏(他力の念仏)のことです。
親鸞聖人は、その「他力の念仏」から、本体である「信心」を抜き出して、これ一つで救われるのだ、と鮮明にされたのです。これを「唯信別開(ゆいしんべっかい)」といいます。
分かりやすい例えで言いますと、お母さんが子供に「この財布で買い物をしてきてね」と渡したとします。法然上人の「念仏為本」という教えは、この「財布が本」という教えです。 しかし、子供が店で財布を開けてみると、お金が入っていなかったらどうでしょう。何も買えません。本当に大事なのは、財布そのものではなく、中に入っているお金です。
念仏(財布)は尊いものですが、それだけでは救われません。その中に、阿弥陀仏から賜る信心(お金)が入っていなければ、空っぽの財布と同じ「空念仏」になってしまうのです。 親鸞聖人は、「財布(念仏)にも空っぽの財布がある。財布の中のお金(信心)一つで物が買える(救われる)のですよ」と、その核心を抜き出して教えられたのです。
教えられ方は違いますが、その心は全く同じです。
おわりに:なぜ今、800年前の「選択」が私たちに必要なのか
私たちは今、情報と選択肢にあふれた時代に生きています。生き方も、価値観も、無数の選択肢が目の前に広がり、「どれを選べばいいのか分からない」と途方に暮れている人は少なくないでしょう。
800年以上前に書かれた『選択本願念仏集』は、そんな現代を生きる私たちに、極めて重要な視点を与えてくれます。 それは、「あなたが迷いながら選ぶ」のではなく、「あなた一人のために、選び抜かれた確かな道が、ただ一つだけ存在する」というメッセージです。
すべての人が、そのままの姿で、本当の幸せになれる道。 その一筋の道を指し示し、日本仏教の歴史を大転換させた革命の書。それが『選択本願念仏集』なのです。 そして、その真意を明らかにされたのが、親鸞聖人の『教行信証』でありました。 この2冊の書は、人生の根本問題に対して、800年の時を超えて、今もなお揺るぎない答えを示してくれています。
参考動画: 法然上人と大原の法論│主著『選択本願念仏集』の執筆