多くの人が最後に悔やむ「たった一つのこと」

雑誌『プレジデント』で「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という特集が組まれるなど、今、多くの人が人生の根源的な意味を問い直しています。

では、人生の最後に、人々が最も「やり残した」と感じることは何なのでしょうか。

人生の岐路に立ち、星空を見上げる人物
私たちは、人生の答えを見つけられているだろうか

3000人の最期を看取った医師の結論

緩和ケア医として3000人以上の患者さんを看取ってきた大津秀一氏は、人が死の直前に後悔することを10項目にまとめています。

「他人に優しくしなかったこと」「大切な人に『ありがとう』と伝えられなかったこと」など、胸に迫る後悔が並ぶなか、特に見過ごせないのが9番目の項目です。

生と死の意味を見出しえなければ、自分に死が迫ったときに、それは大きな恐怖となり、眼前に立ちふさがることも

— 大津秀一氏(緩和ケア医)

財産や名声を得たとしても、この「生と死の意味」が分からなければ、死を前にしたとき、すべてが虚しく感じ、大きな恐怖に襲われるといいます。

これこそ、仏教で明らかにされている、私たち人間の最も重要な課題なのです。

なぜ私たちは「死」から目を背けてしまうのか?

そうは言っても、「死」について考えるのは不吉で、できれば避けたいと思うのが人情でしょう。「もっと明るい生の話がしたい」と誰もが思います。

しかし、仏教では「生と死は切り離せない」と教えられます。

「生」と「死」は紙の裏表

ちょうど一枚の紙に裏と表があるように、「生」と「死」は一体です。 私たちは毎日を「生きている」と思っていますが、それは同時に、一日一日、「死に向かっている」ことに他なりません。

生の側面だけを見て、死というもう半分の側面から目を背けていては、人生という紙の本当の姿は、決して分からないのです。

「生まれてきたのは何のためか、死ねばどうなるのか」。この人生で最も重大な問題を、仏教では生死の一大事といいます。

「生死(しょうじ)の一大事」

「死んだらどうなるか」の大問題。

これは、死んでから始まる問題ではなく、今を生きている私たち一人一人に突きつけられた、避けて通ることのできない一大事なのです。この解決こそが、仏教の究極の目的です。

あなたの人生は「トイレのない豪邸」?死の準備が「生」を輝かせる理由

「死の問題を解決することが、なぜ今の人生に関係あるのか?」と疑問に思うかもしれません。

その関係は、「台所と便所」の関係に例えられます。

豪華なキッチンと、トイレの対比
快適な生活には、見たくない部分の備えが不可欠

台所は、食事を作る明るく楽しい場所で、誰もが好きです。一方、便所(トイレ)は汚いものを出す場所なので、あまり考えたくないかもしれません。

しかし、どんなに立派な豪邸でも、トイレがなければどうでしょう? 「うちにはそんな不潔なものはありません。500メートル先のコンビニへどうぞ」と言われたら、安心して食事を楽しむことなどできないはずです。

心から安心できる人生とは

いつでも安心して出せる準備(便所)があるからこそ、私たちは安心して食べたり飲んだり(台所)できるのです。

これは、人生においても全く同じです。 「いつ死んでも大丈夫」という死の問題の解決があってこそ、初めて私たちは、心から安心して、充実した人生を送ることができるのです。

あるバス旅行で、高速道路がひどい渋滞にはまったことがありました。乗客たちはだんだん口数が減り、青い顔になっていきます。トイレに行きたくてたまらないからです。あれでは、車窓の景色を楽しむどころではありません。

死への準備がないまま生きるのは、いつ催すか分からない便意を抱えながら、出口のないバスに乗り続けるようなものなのです。

「待ったなし」でやってくる“死”という名の怪物

「自分はまだ若いから大丈夫」 「死ぬのはずっと先のことだ」

私たちはそう思い込み、生きることに安心しきっています。しかし、その油断こそが最も危険だと、先人たちは警告します。

すべてのものを奪い去る無慈悲な現実

若くしてガンを宣告され、10年間の闘病生活の末に亡くなった東大の宗教学者、岸本英夫氏は、自らの死を見つめ、その正体を書き記しました。

死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来てもその当事者は、突然に来たとしか感じないのである。(中略)ちょうどきれいにそうじをした座敷に土足のままでズカズカと乗り込んでくる無法者のようなものである。それではあまりムチャである、しばらく待てといっても、決して待とうとはしない。人間の力ではどう止めることも動かすこともできない怪物である。

— 岸本英夫『死を見つめる心』

仕事、家族、財産、そして自分自身……。私たちが「大事だ」と思っているすべてを、死は容赦なく、一瞬で奪い去っていきます。どれだけ「待ってくれ」と叫んでも、決して待ってはくれない「怪物」なのです。

親鸞聖人が示した「生きている今」この問題を解決する唯一の道

では、この無慈悲な「怪物」に、私たちはただ怯え、為す術なく引き裂かれるしかないのでしょうか。

「断じてそうではない」と教えられたのが、浄土真宗を開かれた親鸞聖人です。

「怪物」を迎え撃つ仏教の智慧

仏教の本当のすごさは、この「死」という人生最大の苦しみを、生きているただ今、鮮やかに解決する道が示されていることです。これが親鸞聖人の「平生業成」の教えです。

人生の大事業を完成させる「平生業成」

親鸞聖人の教えは平生業成(へいぜいごうじょう)」です。

  • 「平生」とは、生きている現在のこと。
  • 「業」とは、人生で最も果たさねばならない大事業、すなわち生死の一大事の解決のこと。
  • 「成」とは、完成する、成就するということです。

つまり、死んでからではなく、この世で生きている今、人生の目的が完成できる、というのが平生業成の教えです。

この平生業成の道を歩むとき、私たちは、病や老い、そして死によっても決して崩れることのない「絶対の幸福」を獲得することができるのです。

『歎異抄』に記された究極の安心「無碍の一道」とは

この「絶対の幸福」の世界は、時代を超えて読み継がれる日本の名著『歎異抄』の中に、「無碍の一道(むげのいちどう)」という言葉で記されています。

「無碍」とは、障りがないということ。 死という最大の障りさえも、もはや障りとならない、自由で明るい絶対の幸福の世界です。

高森顕徹先生が監修された書籍『歎異抄ってなんだろう』の帯には、こう書かれています。

やがて死ぬのになぜ生きるのか その答えがここにある

この本がベストセラーとなっているのは、多くの人が心の奥底で、この「答え」を求めているからに違いありません。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いは、決して虚しいものではなく、あなたを本当の幸福へと導く、最も尊い問いです。老いも若きも関係ありません。この問いの答えを、ぜひ仏法に聞いてみてください。