私たちは日々、「幸せになりたい」と願い、あくせくと一生懸命に生きています。しかし、その正体は驚くほどにぼんやりとしていて、手に入れたと思った瞬間に指の間からこぼれ落ちてしまうような、不確かで手応えのないものではないでしょうか。
今日は、「なぜ私たちは本当の幸せになれないのか」、そして仏教が教える「本当の幸せ」とは何なのかについて、じっくりとお話ししてみたいと思います。
私たちが陥っている「相対の幸福」の正体
私たちが普段「幸せだ」と感じる時、そこには必ず「比較」が存在します。誰かと比べたり、あるいは過去の自分と比較したりして、初めて「ああ、幸せだな」と感じる。比べる対象がなければ感じられない幸福、これを仏教では「相対の幸福」と呼びます。
棒の長さは「長い」のか「短い」のか
実は私たちの知恵そのものが相対的なものです。例えば、目の前に1本の棒を出されて「これは長いですか、短いですか?」と尋ねられたら、あなたはどう答えるでしょうか。
- 「長い」と答えれば、それより長い棒を持ってきた瞬間に、その棒は「短い棒」になります。
- 「短い」と答えれば、もっと短い棒と比べた時に「長い棒」になります。
つまり、その棒1本だけでは、長いとも短いとも言えないのです。ノーベル賞を取るような天才であっても、比較対象がなければ答えることはできません。私たちの幸福感も、これと全く同じ仕組みで成り立っています。
年収アップの喜びが「惨めさ」に変わる瞬間
具体的な例で考えてみましょう。ある新入社員が、3年経って手取りが20万円から25万円に増えたとします。
「やった!5万円も増えたぞ。これで生活が楽になる、幸せだ!」
彼はそれまでの自分と比較して、確かに幸福感を味わいます。
ところがその日の晩、同期の仲間と飲みに行き、給料の話になったとします。
すると、自分以外の全員が手取り30万円もらっていることが発覚しました。その瞬間、さっきまでの幸福感はどうなるでしょうか。一瞬で吹き飛んでしまいますよね。
「なぜ俺だけ25万円なんだ……」と、自分よりも多くもらっている同期と比べることで、一転して惨めな気持ち、不幸を感じるようになります。
過去の自分と比べれば幸せだったはずなのに、他人と比較した瞬間に不幸に転落する。これが相対の幸福の危うさです。
歴史の勝者と現代人の「幸福の差」
日本の歴史上で最も成功した人物といえば、豊臣秀吉や徳川家康が思い浮かびます。彼らは天下の権力を手に入れ、当時としては最高峰の暮らしをしていました。
しかし、21世紀に生きる私たちと比較してみたらどうでしょうか。
- 移動手段: 彼らは馬か徒歩ですが、私たちは車や飛行機で世界中を旅できます。
- 情報: 彼らは他国のことなど知る由もありませんでしたが、私たちはスマホ一つで世界中の情報を得られます。
- 食生活: 彼らはカステラを食べて「うまい、うまい」と喜んでいたそうですが、私たちは世界中の食材やフルーツを日常的に楽しんでいます。
物質的な豊かさだけで言えば、私たちは秀吉や家康よりもはるかに恵まれています。
それなのに、なぜ私たちは「私は秀吉より幸せだ!」と心から満足できないのでしょうか。
それは、「周り中のみんなが同じものを持っているから」です。
自分だけが飛行機に乗れる、自分だけがスマホを持っているという状態なら優越感(幸福感)に浸れるかもしれませんが、皆が持っているものは比較の対象にならず、当たり前になってしまうのです。
「幸せ」という漢字に隠された衝撃の語源
ここで「幸せ」という言葉の成り立ちを見てみましょう。中国の説によると、この字は非常に意外な組み合わせからできています。
| 構成要素 | 意味 |
|---|---|
| 逆(逆らう) | 逆らう、反する |
| 夭(夭折) | 若くして死ぬこと |
つまり、「死ぬことに逆らう=死なずに済んだ」というのが幸福の語源だという説があるのです。
さらに象形文字的に見ると、この字は「手錠(手枷)」を表していると言われます。両手を縛られ、手錠をかけられている姿です。なぜ「手錠をかけられること」が幸せなのでしょうか。
究極の消去法としての幸福
昔の処刑は凄惨を極めました。
- 生きながらにして焼かれる「火あぶりの刑」
- 市中引き回しのうえの「獄門」
- 猛牛に手足をくくりつけて四方に走らせ、身体をバラバラにする刑
そんな恐ろしい処刑が当たり前に行われていた時代、「あいつは殺された」「あいつは火あぶりになった」という惨状の中で、自分は自由こそ奪われたけれども命だけは助かった、手錠をかけられるだけで済んだ。「ああ、よかった。死なずに済んだ。手錠だけで済んで幸せだ」
これが幸せの語源だとすれば、幸せの本質とはどこまでも「よりひどい状態と比較して、それよりはマシだ」という相対的なものでしかないことが分かります。
マリー・アントワネットが処刑されたギロチンにしてもそうです。考案者のギロチン伯爵に言わせれば、長い間苦しませずに一瞬で絶命させるギロチンは「慈悲深い、幸せな道具」だったというのです。爪を剥がされ、目をくり抜かれるような拷問に比べれば、一瞬で首を斬られるのは「幸福」であると。
しかし、だからといってギロチンにかけられることが幸福かと問われれば、決してそうは思えませんよね。
人間の心理を突く「悪魔の幸福論」
相対の幸福しか知らない私たちは、無意識のうちに「他人の不幸」を自分の幸福の材料にしてしまう悲しい性質を持っています。
アメリカの作家アンブローズ・ビアスは、その著書『悪魔の辞典』の中で、幸福を次のように定義しました。「他人の不幸を見ているうちに沸き上がる快い気分」
毒のある言葉ですが、否定しきれない真理が含まれています。例えば、女性週刊誌で売れるのは「不倫」「離婚」「略奪婚」といったスキャンダルだそうです。有名人が転落し、政治家がスキャンダルで失墜する。それを見て「自分はあんなにひどくない」「自分はまだマシだ」と安心する。
昔から「上見て暮らすな、下見て暮らせ」と言われます。自分より恵まれている人を見て卑屈になるな、自分より苦しんでいる人を見て「自分はまだ恵まれている」と感謝して生きなさい、という処世訓です。しかし、そんな風に他人の不幸を鏡にして感じる幸福で、本当に「人間に生まれてよかった」と心から喜べるでしょうか。
仏教が明かす「絶対の幸福」の世界
これに対して、仏教では「本当の幸せ」を教えています。誰とも、何とも比べる必要のない幸せ。これを「相対の幸福」に対して、「絶対の幸福」といいます。
蓮如上人が教える「一人居て喜ぶ法」
室町時代の高僧・蓮如上人は、『御一代記聞書』の中で次のように仰っています。
同行(どうぎょう)の前にては喜ぶものなり、これ名聞(みょうもん)なり。信の上は一人居て喜ぶ法なり。
「誰かの前で喜ぶ」「誰かと比べて自分のほうが幸せだと優越感に浸る」のは、仏教でいう「名聞(名誉欲)」にすぎません。しかし、信心決定(しんじんけつじょう)したならば、誰がいようといまいと、一人で喜べるようになります。他人と比較して勝っているから嬉しいのではない。自分がこの世に生まれてきたこと、その命そのものが尊く、ありがたいと心から喜べる。これを「生命の歓喜」といいます。
親鸞聖人が宣言された「絶対不二の教え」
浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、『愚禿鈔(ぐとくしょう)』の中で次のようにズバリと仰っています。
本願一乗は頓極頓速・円融・円満之教なれば、絶対不二之教、一実真如之道也と応に知るべし。
ここで親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願こそが「絶対不二の教え」であると断言されています。「この世に絶対なんてあるものか」と言う人は、親鸞聖人の教えを知らない残念な人だと言わざるを得ません。
このお言葉の意味を紐解いてみましょう。
- 本願一乗: すべての人を平等に救い、幸せにする唯一の乗り物(教え)。
- 頓極頓速:「頓(とん)」とは速いということ。極めて罪の重い人であっても、一念(一瞬)で正定聚(しょうじょうじゅ)という幸せな世界まで高跳びさせてくださる。
- 円融・円満: 欠けたところが一切ない、完全無欠の救い。
- 専が中の専、頓が中の頓: 自分の力(自力)ではなく、阿弥陀仏の本願力(他力)のみによって、一瞬で救い摂られること。
- 真の中の真、円の中の円: これ以上ない真実であり、満月のようにすべてを備えた円満な救い。
金剛の真心と無碍の信海
阿弥陀仏の本願に救い摂られた心を、親鸞聖人は「金剛の真心(こんごうのしんしん)」と呼びました。金剛(ダイヤモンド)のように決して崩れることも、色あせることも、消えることもない、真実の信心です。
そして、その世界を「無碍の信海(むげのしんかい)」と仰っています。「無碍」とは、障りにならないということ。
- 自分の内側にある欲、怒り、妬み、そねみといった「煩悩」が、幸せの障りにならない。
- 周囲からの非難や中傷、どんな逆境であっても、それが前進を妨げるものにならない。
何が起きても、誰と比較しても揺らぐことのない、大海のような広大で深い安心の世界。これが、仏教で教えられる「絶対の幸福」なのです。
結びに
私たちが「なかなか幸せになれない」と感じるのは、当然のことです。なぜなら、私たちが知っているのは「何かに依存し、誰かと比較しなければ成立しない」相対の幸福だけだからです。
しかし、仏教には、一人居て喜べる、人間に生まれてきたこと自体を歓喜できる道が示されています。
比べる必要のない「絶対の幸福」とは、今のあなたのまま、一念で救われる世界です。ぜひとも続けて仏教を聞き、この生命の歓喜を味わっていただきたいと切に願っています。
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