あなたが求める「本当の幸せ」は“天国”にはない?仏教だけが教える「常楽の世界」、極楽浄土の本当の姿

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誰もが願う「幸せな世界」。しかし、多くの人がイメージする「天国」は、実は永続的な幸せのない「迷いの世界」かもしれません。お釈迦さまは、一切の苦しみがなく、常に楽しい「常楽」の世界である唯一の場所「極楽浄土」を説かれました。この記事では、なぜ極楽だけが真の幸福の場所なのか、そしてその世界への扉が「生きている今」開かれる秘密を解き明かします。

「天国」と「極楽」、その言葉の本当の意味をご存じですか?

「うちのおじいちゃん、天国に行ったのよ」
「あそこのお母さん、今朝、往生されたそうです」

私たちは、人の死に際して、このような言葉を何気なく使います。しかし、「天国に行く」と「往生する」が、実は全く異なるものを指していることをご存じでしょうか。

この記事では、多くの人が混同しがちな「天国」と、仏教で説かれる「極楽」の決定的な違いを、仏教の教えに基づいて明らかにしていきます。

日本人が曖昧に使う「天国」という言葉

まず、「天国」という言葉について考えてみましょう。 日本人はキリスト教の神をほとんど信じていないにもかかわらず、「天国の母に誓います」のように、死後の世界を指して「天国」という言葉をよく使います。

しかし、これは厳密に言えば、キリスト教の教えというわけでもありません。キリスト教の聖書には「天の国」という言葉はわずかしか出てこず、意味もハッキリしておりません。それよりも、「神の国」という言葉の方が頻繁に使われています。

だから、キリスト教では「神の国へ行った」という方が適切なのですが、そんな風に言う日本人にはまず会いません。

つまり、私たちが使う「天国」とは、特定の宗教的背景を持つ言葉というよりは、「この世とは違う、幸せなあの世へ行ってもらいたい」という願望を込めた、漠然としたイメージなのかもしれません。

仏教で「往生する」と言われる「極楽浄土」とは

一方で、仏教、特に浄土真宗で使われる「往生」は、極めて明確な意味を持っています。

「往生」とは、単に死ぬことではありません。「往生=死ぬこと」という理解は完全に間違いです。

往生の「往」は往く。「生」は生まれる、ということなので、 これは極楽浄土に往って仏に生まれるという意味なんです。

阿弥陀仏という仏さまが建立された「極楽浄土」という世界に往き、そこで阿弥陀仏と同じ仏として生まれることなのです。 この「仏になれる」という点が、他のいかなる宗教観とも決定的に異なる、仏教の大きな特徴です。

では、なぜ仏教は、一般的に言われる「天国」を明確に否定するのでしょうか。その根本的な理由を見ていきましょう。

なぜ仏教は「天国」の存在を明確に否定するのか

結論から言えば、仏教の教えの根幹には、キリスト教などで説かれる「天国」という概念が入り込む余地は全くありません。その理由は、大きく分けて二つあります。

創造神を認めない、仏教の根本的な道理

第一に、仏教とキリスト教では、世界の成り立ちに関する根本的な考え方が異なります。

キリスト教やユダヤ教、イスラム教は、絶対的な「神」が世界を創ったとする「天地創造」を教えの前提としています。彼らにとって神は唯一絶対の創造主であり、人間が神になることは決してありません。

しかし、仏教はそのような全知全能の神や、天地創造の神話の存在を明確に否定します。

そういうキリスト教でいうような天国というものは仏教では否定します。天地創造あるいは全知全能の神、そういうものは存在しないというのが仏教の教えです。ですから天国というものもない。

このように動画で言いましたが、その理由は仏教の根底にある「因果の理法」です。「すべての結果には必ず原因がある」。この厳格な道理の前では、絶対的な創造主という存在は成り立たないのです。

因果の理法

蒔いた種は必ず生えるが、蒔かぬ種は絶対に生えない。 原因なくして、結果が生じるはずがない。「無」から「有」を生み出した創造主がいるという考えは、明確にこの道理から外れた考えです。

【要注意】仏教の「天上界」は極楽ではない、迷いの世界

第二に、仏教の中にも「天」という言葉がつく世界は存在します。それが「天上界(てんじょうかい)」です。「天上界」は六道輪廻の最上位にあります。

六道輪廻(ろくどうりんね)とは

仏教では、私たちは、自らの行い(業)に応じて6つの迷いの世界を生まれ変わり死に変わり、さすらい続けていると教えられます。これを「六道輪廻」といいます。 その6つの世界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界です。

天上界は、人間界よりも遥かに寿命が長く、楽しみの多い、幸せな世界であることは間違いありません。 私たちのイメージする「天国」もそれに近いものかもしれません。

しかし、どれだけ幸せでも、そこは永続的ではない「迷いの世界」の一つなのです。

残念ながらこの天上界も、だんだんだんだんと衰えていきます。老いる苦しみというのがあります。 そして寿命がありますから、やがて天上界の寿命を終えて、また次の迷いの世界に入っていく。ぐるぐるぐるぐると六道を果てしなく廻っている。これが仏教の生命観です。

寿命が尽きれば、必ず次の世界に堕ちていかねばならない。その時には、大変苦しみます。それが天上界の真実です。 私たちが人間に生まれた目的は、この終わりなき苦しみの輪廻から完全に抜け出し、本当の幸せになるためだと、仏教では教えられています。

その唯一の出口として説かれるのが、お釈迦さまが経典に詳しく説かれた「極楽浄土」なのです。

お釈迦さまが経典に描かれた「極楽浄土」の驚くべき世界

「天国」という場所はなく、仏教の「天上界」も迷いの世界であるならば、私たちが目指すべき「極楽浄土」とは、一体どのような世界なのでしょうか。

その姿は、お釈迦さまが『阿弥陀経(あみだきょう)』というお経の中に、詳しく説き明かされています。

彼の土(くに)を何が故ぞ名けて極楽と為す。その国の衆生は、衆の苦有ること無く、ただ諸の楽のみを受く。故に極楽と名く。

— 『阿弥陀経』

「極楽」とは、その字の通り「楽しみを極めた世界」。一切の苦しみがなく、ただ楽のみがあるから「極楽」と名付けられたと、お釈迦さまは断言されています。 さらに、お釈迦さまは私たちにもその素晴らしさが少しでも伝わるように、具体的な姿を説き明かされています。

又舎利弗、極楽国土には七宝の池有り 八功徳水、其の中に充満せり 池の底には純ら金沙を以て地に布けり

— 『阿弥陀経』

極楽浄土には、七つの宝でできた池があり、そこには「八功徳水」という、八つの素晴らしい特徴を持つ水が満ち満ちていると説かれます。

甘い、冷たい、やわらかい、軽い、清らか、くさくない、飲む時に喉を傷めない、飲んでもお腹をこわさない。こういう8つの素晴らしい特徴のある水だそうです。

とても透明な水
当時のインドでは考えられない最高の水

最近はおいしい水がよく売られてますよね。 富士山の水ですとかね。私が住んでいる富山県も立山という素晴らしい山がありますけれども、立山の水、いい水ですよ。よくペットボトルに入って売られています。 そういう水とは別にまたミネラルウォーターを飲みたいという方もありましょう。

ぜひ皆さん 極楽浄土に往って、この八功徳水の水、味わってみてください。

そして、その池の底には、純金色の砂がキラキラと敷き詰められているのです。想像するだけでも、その美しさに心が洗われるようです。 さらに、池の周りや建物も、まばゆいばかりの宝石で飾られています。

四辺の階道、金・銀・瑠璃・玻瓈をもって合成せり

— 『阿弥陀経』

瑠璃(るり)とは青い宝石、赤珠(しゃくしゅ)は赤い真珠のことです。そのような色とりどりの美しい宝石が、惜しげもなく建物を荘厳している。それが極楽浄土の日常の風景なのです。

極楽浄土の階段イメージ
宝石で荘厳しつくされた建築

なぜ宝石やご馳走で描かれるのか?私たちに向けられた仏の巧みな方便

このように聞くと、「そんなおとぎ話、信じられるわけがない」と感じる人もいるかもしれません。しかし、そう思ってしまうのは「大変もったいないこと」です。 お釈迦さまがこのような表現をされたのには、深い理由があるのです。

これはお釈迦さまがですね、何とか私たちを阿弥陀仏の極楽浄土に生まれさせよう、それには極楽浄土に生まれたいという心を起こさせるためにですね、私たちの分かるもので、ああ気持ちのいい幸せな世界だなということを少しでも感じられるように説かれてるんです。

あまりに高遠な仏のさとりの世界は、私たち凡夫には到底理解できません。

そこで、お釈迦さまは巧みな方便として、私たちが「幸せだ」と感じる美味しい食べ物や心地よい音楽、美しい宝石などに例えて、極楽の素晴らしさを何とか伝えようとされたのです。これを仏教の言葉で「余方に因順(よほうにいんじゅん)して」と言います。

これをよく昔の人は

猫の参るお浄土は宮殿楼閣みなカツオ。ネコも呆れてニャムアミダブツ。

と言ったといわれます。

猫の往きたい極楽浄土はカツオづくし
ネコも呆れてニャムアミダブツ

もし猫に「浄土に生まれたい」という気持ちを起こさせようと思ったら、 「おーい、猫ちゃん猫ちゃん。極楽浄土はね、宮殿楼閣みんなカツオでできてるんだよ。うまいぞ、たらふく食べれるぞ」 というように、猫には猫の分かる話をしなければなりませんね。

それと同じように、お釈迦様も、私たち人間のレベルに合わせて説かれたのが、お経に描かれる極楽の姿なのです。

私たちにはあまりにもその高遠な仏のさとりを知る知恵がありませんので、私たちに分かるようなレベルの話で話をされた。 「とっても楽しい幸せな世界だよ。生まれたいだろう、生まれられるよ」と私たちに思わせるために、こういう説かれ方をされたということなんです。

「青色青光」が教える、すべての個性がそのままで輝く幸せ

極楽浄土の巧みな描写をお話ししておりますが、この中には、さらに深い教えが隠されています。『阿弥陀経』には、極楽の池に咲く蓮の花について、こう説かれています。

池の中に蓮華有り、大きさ車輪の如し。青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光ありて、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。

— 『阿弥陀経』

原文では「青色青光(しょうしきしょうこう) 黄色黄光(おうしきおうこう) 赤色赤光(しゃくしきしゃっこう) 白色白光(びゃくしきびゃっこう)」とリズミカルに説かれるこの一節。これは、単に蓮の花が色とりどりで美しいというだけではありません。

どんな人でもこの阿弥陀仏の本願に救われたならば、実はこの世からですね、それぞれの違いがあるまんまで 個性があるまんまで、その違いのあるままで光を放つ 幸せになれる。

いろんな個性のある人間がそれぞれのままで、ありのままで幸せになれる。それが仏教の教えであり、阿弥陀仏の救いであり、それがこの極楽浄土の蓮池に例えられて教えられてるんです。

他人と比べて一喜一憂し、同じになれないことに苦しむのが私たちの姿です

しかし、阿弥陀仏の救いは、全ての人の個性をそのまま最高に輝かせる救いです。その素晴らしい世界が、「青色青光 黄色黄光」という言葉で表現されているのです。

このような素晴らしい世界へは、どうすれば往くことができるのでしょうか。驚くべきことに、その道は死後ではなく、「今、この世」でハッキリと定まるのです。

極楽への道は、死後ではなく「今、この世」で定まる

これまで見てきたように、極楽浄土は天国とも天上界とも全く異なる、真実の幸福の世界です。 そして、お釈迦さまがその世界を丁寧に説かれた目的は、ただ一つ。

生きているこの世で、阿弥陀仏の本願に救い摂られて「往生一定(おうじょういちじょう)」の身になってもらうためです

仏法を聞く究極の目的―「往生一定」こそが「絶対の幸福」

「往生一定」とは、その字の通り、「往生することが一つに定まる」ということです。

往生一定。死ねば必ず極楽浄土に往って仏に生まれる。それが、今、ハッキリするんです。この世で一つに定まるんです。これを信心決定(しんじんけつじょう)ともいうんですね。

いつ死んでも、必ず極楽浄土へ往って仏になれることが、生きている今、ハッキリと定まった心の状態。これこそが、何ものにも破壊されない「絶対の幸福」であり、私たちが仏法を聞く究極の目的なのです。

「往生即成仏」の約束―阿弥陀仏と同じ仏のさとりへ

この「往生一定」の身になれば、死はもはや恐怖の終着点ではなく、輝かしい仏のさとりの世界への門出となります。

なぜなら、極楽浄土に往生すると同時に、私たちは阿弥陀仏と寸分違わぬ仏のさとりを開かせていただけるからです。これを「往生即成仏(おうじょうそくじょうぶつ)」と言います。

煩悩にまみれ、苦しみ続ける私たちが、この身このままで絶対の幸福の身となり、死ねば弥陀の浄土で仏になることができる。

これこそが、お釈迦さまが全生涯をかけて説かれた教えであり、浄土真宗を開かれた親鸞聖人が明らかにされた、仏教の結論なのです。

曖昧な「天国」を願うのではなく、ハッキリとした「極楽往生」を目指す。その道は、真剣に仏法を聞く以外にはありません。

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参考動画: 極楽と天国 どうちがうの?