西洋哲学が見つけられなかった「永遠の幸福」は『歎異抄』にあった!

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ソクラテスから始まる西洋哲学が2400年追い求めてきた「永遠の幸福」。しかし、その探求は未だ答えを見つけられずにいます。だが驚くべきことに、その明確な答えが日本の古典『歎異抄』に記されているのです。この記事では、なぜ『歎異抄』が西洋哲学を超えるのか、その秘密を解き明かします。

【結論】 「永遠の幸福」は『歎異抄』に

『歎異抄第1章』 冒頭

【原文】  「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

【意訳】  “すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

— 高森顕徹著『歎異抄をひらく』

「幸せって何?」ソクラテスも追い求めた人生の根源的な問い

「ソ・ソ・ソクラテスか プラトンか、ニ・ニ・ニーチェか サルトルか、みんな悩んで大きくなった、おれもおまえも大物だァ」。この懐かしい歌に登場する哲学者たちは、西洋哲学を代表する天才たちです。中でもソクラテスは「哲学の父」と呼ばれ、その座右の銘は「汝自身を知れ」でした。

私たちは今、スマートフォンがあれば何でも瞬時に調べられる時代に生きています。しかし、「人間とは何者か?」、「自分とは何か?」という根源的な問いに対し、私たちは答えられるでしょうか。画家ゴーギャンもまた、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という問いを自身の最高傑作のタイトルとしました。

ソクラテスが、「自分は無知であることを知っている点で、自分が無知であることにすら気づいていない人々よりも賢者である」(「無知の知」)と言うように、

「人生における根源的なことが分かっていない」と自覚し、知ろうと努力する人は、すでに一歩先んじている賢者と言えるのかもしれません。

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

今日が楽しいと明日も?「諸行無常」なこの世で探し求める“変わらぬ幸せ”

我々はどこへ向かっているのか。
それは誰しも幸せに向かって、幸福を求めて生きていると言えるでしょう。

しかし、「今日は幸せだけど、明日にはなくなってもいい」と考える人はいないはずです。

かつて歌手の浜崎あゆみさんの曲に、次のような歌詞がありました。

今日がとても楽しいと 明日もきっと楽しくて
そんな日々が続いてく そう思っていたあの頃

— ♪ 浜崎あゆみ『SEASONS』

現実は「諸行無常」で、楽しい日々がずっと続くことはありませんが、それでも、私たちは無常なこの世で、続く幸せを求め続けています。

だから、哲学者プラトンは、「永遠の幸福」こそが「万人共通の人生の目的」であると論じ、その後2400年にわたる西洋の哲学者も皆、この永続する幸福を探し求めていたのです。

西洋の天才たちの探求が行き詰まった「言葉の壁」

しかし、残念ながら、永遠の幸福と呼べるものは西洋哲学には見つかっていません。

哲学者ウィトゲンシュタインは、言葉の本質からして「永遠」といったものは言葉で論じることができないとさえ言いました。

「人間の思考は言葉に依るため、言葉で思考している限り、永遠の幸福にたどり着くことはできない」と。

つまり、人間の知恵では「永遠の幸福」は分からないという結論に至り、西洋哲学は現在、この限界にぶち当たってどうすることもできない状況なのです。

「摂取不捨の利益」とは?『歎異抄』第1章に秘められた真実

しかし、西洋哲学では見つけられなかった「永遠の幸福」の答えは、驚くべきことに、今から約700年前に書かれた仏教の書物『歎異抄』の中に明確に示されています。

弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて、往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思いたつ心の発るとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり

— 歎異抄 第1章冒頭

『歎異抄』とは、親鸞聖人の肉声ともいえる言葉を、弟子の唯円が記したといわれる名著で、全18章からなりますが、その内容は第1章に集約されると言われます。

その中にある「摂取不捨の利益(せっしゅふしゃのりやく)」こそが、「永遠の幸福」なのです。

  • 「利益」とは幸福
  • 「摂取」とは「ガチッと摂め取って決して捨てない

ということです。

一切が崩壊に向かっている
捨てられない幸福はどこにあるのか

私たちが手に入れる幸せは、健康や仕事、人間関係など、どんなものであれ、いずれは病気や倒産、裏切りによって失われてしまいます。これは「幸せに捨てられる」ということです。

そうではない、捨てられない幸せ(摂取不捨の利益)があるのだと『歎異抄』にはハッキリ書かれているのです。

ソクラテスの問いへの最終回答 ― 「汝自身」が知らされる『歎異抄』の世界

『歎異抄』に説かれる「弥陀の誓願不思議にたすけられた時」、ソクラテスの座右の銘でも言われていた「汝自身」がハッキリと知らされます。これを「機の深信(きのじんしん)」と言います。

闇を映す丸鏡
仏法は「真実の自己」を映す鏡

同時に、阿弥陀仏の誓願が真実であったということもハッキリします。これを「法の深信(ほうのじんしん)」と言います。

この二つの真実、

  • 自己の本当の姿(機)
  • 阿弥陀仏の本願まこと(法)

が同時に疑いなくハッキリすることを「二種深信(にしゅじんしん)」と言います。『歎異抄』に説かれる「弥陀の誓願不思議」とは、この二種深信の不思議なのです。

「地獄一定」と「極楽一定」とが同時にハッキリする

これは、私たち人間の物差し(凡智)で測ると、矛盾しているとしか思えないものです。江戸時代の華厳宗の大学者・鳳潭(ほうたん)は、親鸞聖人の書を一読するや「狂人の書だ」と断じ、庭先に投げ捨てたといいます。

人間の理性や知恵では到底理解し得ない、真実の世界が『歎異抄』には書かれており、その世界は、西洋哲学が2400年探し求めても得られなかった永遠の幸福(「摂取不捨の利益」)に他なりません。

『歎異抄』は2400年の西洋哲学を超える。この真実を、これから多くの人々に知っていただきたいと願っています。

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参考動画: 哲学者が2400年かけても見つけられなかった答えが「歎異抄」に書かれている