【結論】 「永遠の幸福」は『歎異抄』に

『歎異抄第1章』 冒頭

【原文】  「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

【意訳】  すべての衆生を救う〟という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

— 高森顕徹著『歎異抄をひらく』

「幸せって何?」ソクラテスも追い求めた人生の根源的な問い

「ソ・ソ・ソクラテスか プラトンか、ニ・ニ・ニーチェか サルトルか、みんな悩んで大きくなった、おれもおまえも大物だァ」。この懐かしい歌に登場する哲学者たちは、西洋哲学を代表する天才たちです。中でもソクラテスは「哲学の父」と呼ばれ、その座右の銘は「汝自身を知れ」でした。

私たちは今、スマートフォンがあれば何でも瞬時に調べられる時代に生きています。しかし、「人間とは何者か?」、「自分とは何か?」という根源的な問いに対し、私たちは答えられるでしょうか。画家ゴーギャンもまた、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という問いを自身の最高傑作のタイトルとしました。

これらの問いは、人生で最も本質的でありながら、実は多くの人がその答えを知らないまま生きています。しかし、「人生における根源的なことが分かっていない、知らないで生きている」と自覚し、そのことを知ろうと努力する人は、すでに一歩先んじている賢者と言えるのかもしれません。このような答えを、西洋哲学は長きにわたって探し求めてきました。

今日が楽しいと明日も?「諸行無常」なこの世で探し求める“変わらぬ幸せ”

誰もが幸せを求めています。しかし、「今日は幸せだけど、明日にはなくなってもいい」と考える人はいないでしょう。誰もが「今日が幸せであれば、それがずっと続いてほしい」「変わらない幸せになりたい」と願っています。

かつて歌手の浜崎あゆみさんのヒット曲『SEASONS』には、「今日がとても楽しいと 明日もきっと楽しくて、そんな日々が続いてく そう思っていたあの頃」という歌詞がありました。しかし、現実には楽しい日々がずっと続くことはありません。 これが「諸行無常」というこの世の真実です。

それでも、私たちは無常なこの世で、永遠に変わらない幸せを求め続けています。まさにプラトンは、「永遠の幸福」こそが「万人共通の人生の目的」であると論じていました。プラトン自身も、そしてその後2400年にわたる西洋の哲学者は皆、この永遠の幸福を探し求めてきたのです。

【よくある誤解】西洋哲学2400年が答えを見つけられなかった「永遠の幸福」

プラトンが提唱して以来、2400年もの間、西洋哲学は「永遠の幸福」という万人共通の目的を追い求めてきました。しかし、残念ながら、その答えは西洋哲学には見つかっていません。誰もそれを体得した人はいません。

哲学者ウィトゲンシュタインは、言葉の本質からして「永遠」といったものは言葉で論じることができないとさえ言いました。人間の思考は言葉に依るため、言葉で思考している限り、「永遠の幸福」にたどり着くことはできないと。つまり、人間の知恵では「永遠の幸福」は分からないという結論に至り、西洋哲学は現在、この限界にぶち当たってどうすることもできない状況なのです。

「摂取不捨の利益」とは?『歎異抄』第1章に秘められた真実

しかし、西洋哲学では見つけられなかった「永遠の幸福」の答えは、驚くべきことに、今から約700年前に書かれた仏教の書物『歎異抄』の中に明確に示されています。

『歎異抄』は、親鸞聖人の肉声ともいえる言葉を、弟子の唯円が記したとされる名著です。全18章からなる『歎異抄』ですが、その内容はすべて冒頭の第1章に集約されていると言われます。そして、その第1章のわずかな文章の中に、永遠の幸福の真実が秘められています。

第1章の冒頭の一文には、「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思いたつ心の発るとき、すなわち摂取不捨の利益(せっしゅふしゃのりやく)にあずけしめ給うなり」とあります。

この「摂取不捨の利益」こそが、『歎異抄』全18章の核となる言葉です。「利益」とは幸福のことであり、「摂取」とは「ガチッと摂め取って決して捨てない」という意味です。私たちが手に入れた幸せは、健康や仕事、人間関係など、どんなものであれ、いずれは病気や倒産、裏切りによって失われてしまいます。これは「幸せに捨てられる」ということなのです。だからこそ、私たちは「捨てられない幸せ」、裏切られない幸福、変わらない幸せを求めるのです。

まさにこの「ガチッと摂め取られて永久に捨てられない幸せ」が、「摂取不捨の利益」であり、これこそが「本当の変わらない永遠の幸福」なのです。プラトンが『饗宴』で「万人共通の目的」と論じ、2400年間西洋の哲学者が探し求めても得られなかった永遠の幸福が、『歎異抄』の第1章で明確に示されているのです。

この幸福は、「弥陀の誓願不思議にたすけられた時」に得られると説かれています。「弥陀の誓願」とは、阿弥陀仏が私たちをガチッと摂め取って決して捨てない幸せにするという、尊い約束のことです。

あなたはもう「無知の知」を知っている?永遠の幸福へと進む第一歩

ソクラテスの有名な言葉に「無知の知」があります。彼は、自分は無知であることを知っている点で、自分が無知であることにすら気づいていない人々よりも賢者であると悟りました。人生の根源的な問いに対し「分からない」と自覚することは、まさにこの「無知の知」であり、永遠の幸福へと進む第一歩と言えるでしょう。

『歎異抄』に説かれる「弥陀の誓願不思議にたすけられた時」には、ソクラテスの座右の銘である「汝自身」がはっきりと知らされます。これを「機の深信(きのじんしん)」と言います。同時に、阿弥陀仏の誓願が真実であったということもはっきりします。これを「法の深信(ほうのじんしん)」と言います。

この二つの真実、「自己の本当の姿」と「阿弥陀仏の本願の真実」が同時に疑いなく明らかになることを「二種深信(にしゅじんしん)」と言い、『歎異抄』に説かれる「弥陀の誓願不思議」とは、この二種深信の不思議を指します。これは、私たちの人間の知恵、凡智(ぼんち)では矛盾としか思えないようなことであり、かつて江戸時代の大学者でさえ、親鸞聖人の書を「狂人の書」と評したほどです。

人間の理性や知恵では到底理解し得ない、この真実の世界こそが『歎異抄』には書かれているのです。そして、この『歎異抄』冒頭の「摂取不捨の利益」こそが、西洋哲学2400年を超える永遠の幸福に他なりません

『歎異抄』は2400年の西洋哲学を超える。この真実を、これから多くの人々に知っていただきたいと願っています。