大学入学共通テストも陥った『歎異抄』第9章の危険な誤解──「喜べない」は信仰の不安なのか?

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多くの知識人を魅了する『歎異抄』。しかし、その内容は非常に難解で、誤読の危険性から「カミソリ聖教」とも呼ばれます。実際、近年の大学入学共通テスト「公共 倫理」で第9章が出題されましたが、その設問は典型的な「落とし穴」にはまったものでした。親鸞聖人が「念仏しても喜びの心が起きない」と吐露された真意は、信仰への不安や疑問では決してありません。この記事では、入試問題がどう間違えたのかを入口に、第9章に示された他力信心の極致を解説します。

なぜ名著『歎異抄』は封印されたのか?──「カミソリ聖教」の警告

『歎異抄(たんにしょう)』といえば、現代において最も広く読まれている仏教書の一つでしょう。多くの文学者や哲学者が賛辞を惜しみません。

例えば、作家の司馬遼太郎氏は「無人島にたった1冊持っていくとしたら『歎異抄』だ」と語り、日本を代表する哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう)氏は、戦火で多くの書物が焼失する中、「一切の書物が焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる」と弟子に語ったと伝えられています。

しかし、これほどまでに称賛される名著でありながら、『歎異抄』にはもう一つの、厳しく恐ろしい側面があります。それは、古来「カミソリ聖教(しょうぎょう)」と呼ばれてきた事実です。

カミソリは、大人が使えば髭を剃ったり紙を切ったりと大変重宝しますが、もし子供が手にすれば、自分も他人も傷つける恐ろしい凶器となります。

同様に、『歎異抄』も、親鸞聖人の教えを正しく深く理解した人が読めば素晴らしい名著ですが、理解が浅い人が読めば、恐ろしい誤解を生み、仏教の根幹を歪めてしまう危険性を孕んでいるのです。

蓮如上人による「封印」

この危険性を見抜いていたのが、浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如上人でした。蓮如上人は、『歎異抄』の写本の最後に、自らの署名とともに厳しい警告の言葉を記されています。

右この聖教は、当流大事の聖教なり。無宿善の機に於ては、左右無く之を許すべからざるものなり。

— 『歎異抄』奥書(蓮如上人)

「この『歎異抄』は非常に大切な聖教である。しかし、無宿善の機(仏教がよく分かっていない人)には、軽々しく読ませてはならない

蓮如上人は、この素晴らしい本があまりにも危険であることを深く洞察され、あえて「封印」されました。その結果、江戸時代には『歎異抄』の存在自体がほとんど知られていませんでした。

明治時代になり、再び『歎異抄』が広く読まれるようになりましたが、残念ながらその真意を理解できる人はほとんどいませんでした。結果として、浄土真宗は逆に衰退してしまったという歴史上の事実があります。蓮如上人の洞察力の凄まじさを感じずにはいられません。

そして、蓮如上人が懸念した「危険性」は、現代においても全く変わっていません。その象徴的な事例が、日本の知性が試される大学入試の現場で起きました。

大学入学共通テストが陥った『歎異抄』第9章の「落とし穴」

2025年に実施された大学入学共通テスト(旧センター試験)の「公共 倫理」において、『歎異抄』が題材として取り上げられました。

出題されたのは、カミソリ聖教といわれる『歎異抄』の中でも、有名な第3章(悪人正機)と並んで特に誤解されやすいとされる第9章でした。

どのような問題だったのでしょうか。試験問題では、ある生徒の発表という形で『歎異抄』第9章のやり取りを取り上げます。

『歎異抄』第9章は、まず、弟子の唯円(ゆいねん)が親鸞聖人に質問するところから始まります。

弟子が、「念仏をすれば誰でも往生できると阿弥陀仏は約束なさったのだから、念仏したときに躍り上がって喜んでもよいはずなのにそうはならず、速やかに浄土に行きたいという心も起きません。これはどういうわけなのでしょう」と質問した

— 大学入学共通テスト「公共 倫理」設問より

「念仏すれば誰でも極楽浄土へ往けると阿弥陀仏は約束なさいました」は誤りですが、それは措くとして、問題は、これに対する、親鸞聖人のご返答に対する解釈です。

親鸞は、「私もあなたと同じで、念仏しても喜びが生じない、喜ぶべきことを喜べないのは煩悩のしわざであるが、仏は人間がそのような「煩悩具足の凡夫」であることをよくご存じで、そういう人間を救おうという願を立てられた。だからこそ往生は確実だと思えるのだ」というようなことを答えたそうです。 宗教者も自分の信仰に不安や疑問をもつことがあると知って、宗教が少し身近に感じられました。

— 大学入学共通テスト「公共 倫理」設問と解答

この設問は、最後に 「宗教者も自分の信仰に不安や疑問をもつことがあると知って、宗教が少し身近に感じられました。」 と書き、

歎異抄第9章での親鸞聖人のお言葉を「自分の信仰に対する不安や疑問の吐露」であると結論付けています。

大学入試センターが公認している解釈ですから、多くの受験生や教育関係者は、これを正しい理解だと思うでしょう。

しかし、これはものの見事に『歎異抄』の「落とし穴」にはまった、決定的な誤解なのです。

なぜ、この解釈が間違いだと言えるのでしょうか。その理由は、私たちが一般的に考える「信心」と、親鸞聖人が教えられた「信心」の根本的な違いにあります。

根本的な誤解──「信じる(自力)」と「知らされる(他力)」の決定的違い

大学入試の解釈は、親鸞聖人の信心を、一般的な宗教でいわれる信心と同じものだと混同しています。しかし、この二つは全くの別物です。

疑いがあるから「信じる」のが自力の信心

一般的に「信心」といえば、人間が自分の心で神や仏を信じようと努めることを指します。これを仏教で「自力の信心」といいます。

しかし、よく考えてみてください。「信じている」ということは、どういう状態でしょうか。

例えば、「火は熱いと信じている」という人がいたら、その人はまだ火傷をしたことがないのでしょう。実際に火に触れて大火傷をした人は、「信じている」とは言いません。「火は熱いと知っている。ハッキリしている」と言うはずです。

今日の天気が晴れだとハッキリしていれば、「晴れだと信じている」とは言いません。大学の合格者一覧で自分の受験番号を見つけた人は、「合格を信じている」とは言わないでしょう。

「信じている」という言葉は、まだハッキリしていない、疑いが残っているときに使う言葉です。信じている限りは疑いはなくなりません。むしろ、疑いがあるからこそ、一生懸命に信じようとするのです。

もし、『歎異抄』第9章の親鸞聖人の告白が、この自力の信心における「不安」や「疑問」ならば、それはマザー・テレサのようなキリスト教徒の信仰の悩みと何ら変わりません。しかし、親鸞聖人の教えは違います。

疑いが晴れて「知らされる」のが他力の信心

親鸞聖人が教えられた信心は、自力の信心とは根本的に異なります。それは「他力の信心」と呼ばれるものです。

他力の信心は、人間が努力して信じるものではありません。阿弥陀仏の力によって頂く信心です。それは、阿弥陀仏の本願(約束)に対する疑いが微塵もなくなり、「必ず極楽浄土へ往ける」とハッキリ知らされた心をいいます。

他力の信心

阿弥陀仏から賜る、疑いの完全に晴れた心。「信じる」のではなく、仏智によってハッキリ「知らされる」世界。この信心を頂くことを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」とも「信心決定(しんじんけつじょう)」ともいう。

親鸞聖人は、この他力の信心について「疑心あることなし」(疑いが全くなくなって、金輪際出てこない)と断言されています。

ですから、大学入試の「(親鸞聖人も)自分の信仰に不安や疑問をもつことがある」という解釈は、他力の信心を全く理解していない、重大な誤りなのです。

他力の信心には、微塵の疑いも不安もありません。この大前提を踏まえて、改めて第9章の親鸞聖人の言葉を読み解くと、共通テストの解釈とは全く異なる真意が明らかになります。

第9章の真意──「喜べない」のに、なぜ「往生は一定」なのか?

ここからは、『歎異抄』第9章の原文に沿って、親鸞聖人の真意を深く見ていきましょう。

「親鸞も同じ心」を鵜呑みにする危険性

第9章は、弟子の唯円の率直な問いから始まります。

「念仏申し候えども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心疎(おろそ)かに候こと、又いそぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、如何にと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、

— 『歎異抄』第9章

【現代語訳】
念仏を称えておりましても、躍り上がって喜ぶ心がありません。また、急いで浄土へ参りたいという心も起きません。これはどうしたことでしょうか。

これに対する親鸞聖人のお答えです。

「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじ心にてありけり」

— 『歎異抄』第9章

【現代語訳】
親鸞もその疑問を持っていたが、唯円房よ、お前も同じ心であったか。

『歎異抄』の落とし穴は、まさにここにあります。この「親鸞も同じ心」という言葉だけを表面的に捉えてしまうのです。

「ほら、親鸞さまでさえ、救われても喜べなかったのだ。早く浄土へ往きたい心もなかったのだ。だから、喜びのない我々でも大丈夫だ。このままで救われているのだ」

このように、喜べない自分の信仰を肯定し、そこに腰を落ち着けてしまう。これこそが、『歎異抄』第9章の最も恐ろしい誤読です。

親鸞聖人は、29歳で他力の信心を獲得されたとき、「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(阿弥陀仏の本願まことであった!)と、大感動を表明されています。

また、主著『教行信証』や『正信偈』には、「大慶喜」(大きな喜び)、「広大難思の慶心」と、救われた喜びを随所に記されています。

救いに疑いはなく、大きな喜びもあるはずの親鸞聖人が、なぜ唯円に対して「親鸞も同じだ(喜べない)」と仰ったのでしょうか。

喜べない原因は、信仰への疑いではなく「煩悩」

親鸞聖人は、その理由を続けてこう喝破されています。

喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。

— 『歎異抄』第9章

【現代語訳】
喜ぶべき心を抑えて、喜ばせないのは、煩悩のしわざである。

注目すべきは、その原因です。親鸞聖人は、「阿弥陀仏の本願を疑っているから喜べないのだ」とは仰っていません。そうではなく、喜べないのは、私たちを悩ませ、苦しませる「煩悩」のせいであると断言されているのです。

他力の信心を得ても、煩悩は少しも減りも無くなりもしません。阿弥陀仏に救い摂られた後も、欲や怒り、愚痴の心は変わらず湧き上がってきます。

親鸞聖人が「喜べない」と仰ったのは、信仰に対する不安からではありません。

「天に躍り地に踊るほど喜んで当然の、弥勒菩薩と肩を並べる大変な幸せに救われたのに、煩悩が邪魔をして喜べない。なんと情けない、あさましい自分であろうか」

これは、救われたからこそ知らされる、ご自身の煩悩に対する痛切な「懺悔」のお言葉なのです。

懺悔と歓喜の同居──「いよいよ往生は一定」

しかし、親鸞聖人の言葉は、この懺悔だけでは終わりません。この直後に、驚くべき歓喜の言葉が続きます。

よくよく案じみれば、天に躍り地に踊るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ「往生は一定(いちじょう)」と思いたまうべきなり。

— 『歎異抄』第9章

【現代語訳】
よくよく考えてみると、天に躍り地に踊るほど喜ぶべきことを喜ばない者だからこそ、いよいよ「極楽往きは間違いない」と明らかに知らされるではないか。

普通に考えれば、これは矛盾しています。「喜べない」のに、なぜ「いよいよ往生は間違いない(一定)」と喜べるのでしょうか。

ここに、他力信心の極致が示されています。

喜ぶべきことを喜べない、煩悩の塊の自分であると知らされる(懺悔)。 しかし、阿弥陀仏は、そのような煩悩具足の凡夫であることを見抜かれた上で、「そのまま救う」と誓われました。

しかるに、仏かねて知ろしめして、「煩悩具足の凡夫」と仰せられたることなれば、「他力の悲願は此の如きの我等がためなりけり」と知られて、いよいよ頼しく覚ゆるなり。

— 『歎異抄』第9章

【現代語訳】
しかし、阿弥陀仏は(私がこのような者であることを)すべてご存じの上で、「煩悩具足の凡夫」と仰せられたのであるから、「他力の本願は、このような私のためのものであった」と知らされて、いよいよ(本願が)頼もしく感じられるのである。

喜べない、あさましい自分であると知らされるほど(懺悔)、そんな者をそのまま救うという阿弥陀仏の本願が、いよいよ頼もしく、間違いないと喜ばずにおれない(歓喜)。

この「懺悔」と「歓喜」が同時に存在する世界。これを「二種深信(にしゅじんしん)」とも「懺悔即歓喜」ともいわれる、言葉では説明できない他力信心の極致なのです。

『歎異抄』第9章は、決して「信仰への不安」を語ったものではありません。それどころか、阿弥陀仏の本願に対する微塵の疑いもないことを、深い懺悔とともに表明された、極めて深い内容なのです。

『歎異抄』の落とし穴を避けるために

大学入学共通テストの出題は、『歎異抄』が広く知られるようになったことを示しており、その点では喜ばしいことかもしれません。

しかし、その設問が示唆する「宗教者も自分の信仰に不安や疑問をもつことがある」という解釈は、第9章の真意とは全く異なります。阿弥陀仏の本願に対する疑いが微塵もないのが、他力の信心だからです。

蓮如上人が「仏教がよく分かっていない人には読ませてはならない」と厳しく警告された通り、この『歎異抄』が有名になるにしたがって、浄土真宗の信仰が誤解されてしまったというのが、この100年ほどの歴史上の事実です。

だからこそ、いま、『歎異抄』の真意を明らかにすることによって、浄土真宗の信心というものを正しく皆さんに知っていただきたいと思っております。

その際に最もお勧めしたいのが、私の先生、高森顕徹先生の書かれた『歎異抄をひらく』という本であります。

70万部に迫るベストセラーで、『歎異抄』解説書の決定版といわれています。

この『歎異抄をひらく』には、誤解されやすい第9章の本当の意味も記されていますので、ぜひお読みください。

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参考動画: 【『歎異抄』の落とし穴】大学入学共通テストと『歎異抄』第9章の誤解