親鸞聖人の教えの大前提「因果の道理」とは?善悪の基準を解説

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「悪人が救われるなら善い行いは不要?」親鸞聖人の教えはそうではありません。その根幹には、すべての仏教を貫く「因果の道理」という絶対の法則があります。この記事を読めば、なぜ善い行いが大切なのか、そして本当の幸福への道が何なのか、その大前提が分かります。

「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」

「悪人こそ救われる」。これは親鸞聖人のお言葉に間違いありませんが、その真意を知る人は稀です。 「悪人が救われるなら、善い行いはしなくてもよいのでは」と誤解する人も多いのではないでしょうか。

しかし、結論から言えば、親鸞聖人の教えは、決して善を否定するものではありません。 なぜなら、親鸞聖人の教えは仏教にほかならないからです。

仏法の根幹は、因果の道理。善いタネをまけば善い結果が得られると教えるのですから、「善」は勧められこそすれ、決して否定されないことは明らかです。 この大前提を、この記事でよく知っていただきたいと思います。

親鸞聖人の教えは「仏法」

親鸞聖人の教えを正しく理解するためには、まず、その教えが「仏法」であることを知らねばなりません。

「浄土真宗」、「親鸞聖人の教え」とは、親鸞聖人が独自に考え出した教えだと思っている人もあるかもしれませんが、親鸞聖人ご自身は次のように言われています。

更に親鸞、珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり。

— 御文章1帖目1通

「この親鸞は、今まで誰も説かなかった新しい教えを弘めたことは一度もない。ハッキリ知られたお釈迦さまの教えをお伝えしているだけなのだ」

愚禿勧むるところ、更に私なし

— 『御伝鈔』|『真宗聖典』746ページ

「この親鸞が勧めていることに、私の考えというものは全くないんだ」

親鸞の教えというのはない、すべては釈迦如来の教法(仏法)ばかりであると、親鸞聖人は仰っています。

では、その仏法とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

時代や場所で変わらない真理

仏教のことを「仏法」ともいいます。「法」とは、古今東西変わらない真理を意味します。

  • 三世を貫く: 過去・現在・未来、いつの時代でも変わらない。
  • 十方を遍く: 東西南北上下四維、大宇宙のどこに行っても通用する。

つまり、仏法とは、1000年前も今日も、そして1万年後も変わることのない、普遍的な真理なのです。

人間の法律との決定的な違い

私たちが使う「法律」も「法」という字を使いますが、これは人間が作ったルールであり、時代や国によって変化します。

「日本も戦争に負けて世の中が変わったのだから、仏法も現代に合わせて変えなければいかんのでしょう」

このように言う人・思う人がありますが、仏法は人間の都合で変わったりするものではありません。説き方や伝え方は時代に合わせて工夫するべきですが、その教えの内容、つまり宇宙の真理そのものは、絶対不変なのです。親鸞聖人の教えもまた、この揺るぎない「法」に基づいています。

すべての仏教を貫く根幹「因果の道理」

では、その不変の仏法において、根っこであり幹となる根本の教えとは何でしょうか。

それは「因果の道理」です。これを抜きにして、仏教、そして親鸞聖人の教えを理解することはできません。

「まいた種しか生えない」という法則

因果の道理とは、原因と結果の法則のことであり、非常にシンプルに言いますと、以下です。

まいた種は、必ず生える。 まかぬ種は、絶対に生えない。

これは、「どんな結果にも必ず原因がある」「原因なしに生じる結果は万に一つもない」という法則を示しています。

私たちの科学技術や学問も、すべてはこの因果の法則を前提として、あらゆる現象の原因を探求し、より良い結果を生み出そうと発展してきました。りんごが落下する現象を「あんなのは、たまたま落ちただけだ」で済ませていたら、今日の物理学の発展はなかったでしょう。

仏教が「偶然」を認めない理由

私たちは、原因が分からない出来事に遭遇した時、「偶然そうなった」という言葉を使いがちです。しかし、仏教では原因のない「偶然」を一切認めません。

例えば、飛行機事故が起き、その機体がそのまま深海に沈んでしまったとします。機体は海の底からは回収できませんので、原因が「分からない」ことになります。でも、原因なしに墜落したなどと言う人はいないでしょう。ハイジャックか、燃料切れか、乱気流に巻きまれたか、などの原因が必ずあったのです。原因が「分からない」ことと、「なかった」ことは全く違います。

この世の森羅万象、すべての出来事は、必ず何らかの原因があって生じた結果である──。これが、仏教が説く宇宙の法則なのです。

あなたの運命を創るものは何か?仏教の明確な答え

この因果の道理を踏まえた上で、私たちの最大の関心事である「自分の運命」について考えてみましょう。私の未来は、一体何によって決まるのでしょうか。

仏教の答えは明確です。私たちの運命は、神や偶然、あるいは印鑑や家相などで決まるのではありません。すべて「自分自身の行い」が生み出すと教えられます。

運命は「与えられる」ものではない

世界には、運命は全知全能の神によって創られ、与えられるものだと信じる宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)が数多くあります。この考え方では、人間は与えられた運命を受け入れるしかありません。

しかし、仏教の教えは全く異なります。善いのも悪いのも、すべて自分のまいたタネの結果だと教えます。

かつてハワイ大学で、キリスト教圏の学生たちに「仏教では、自分の運命は自分の行いによって造られていくと教えます」と話した時、彼らが非常に驚き、重荷から解放されたような表情を見せたことがありました。自分の努力で運命を切り開けるという教えは、彼らにとって青天の霹靂だったのです。

幸福は「善根」から生まれる

このことは、高森顕徹著『光に向かって100の花束』の中で、印相などの迷信を否定された上で、次のように明快に示されています。

仏法はしかし、これら一切を、一刀両断に迷信とする。
そして真の幸福は、印相などから生まれるものでなく、日常生活の善根から生ずると教える。

善因善果 悪因悪果 自因自果

カボチャの種からナスビの芽が出たためしがない。 まいたタネしか生えてはこないのだ。

— 高森顕徹著『光に向かって100の花束』

私たちの運命という「結果」は、私たち自身の行いという「原因」によって生み出されるのです。

  • 善因善果: 善い行い(原因)は、幸せな運命(結果)を生み出す。
  • 悪因悪果: 悪い行い(原因)は、不幸な運命(結果)を生み出す。
  • 自因自果: 自分のまいた種(原因)の結果は、すべて自分が刈り取らねばならない。

これが、私たちの運命を決定づける、厳粛な真理です。

因果の道理は三世を貫く

では、なぜ善い行いをしてもすぐに善い結果が現れないことがあるのでしょうか。逆に、悪いことをしているように見える人が成功しているのはなぜでしょうか。

その答えは、因果の道理が、私たちが認識している「今」という時間だけにとどまらない、より広大なスケールで貫かれているからです。

行為が持つ消えない力(業力不滅)

仏教では、私たちの行いを「(ごう)」、サンスクリット語で「カルマ」といいます。そして、一度行った行為は、「業力(ごうりき)」という目に見えない力となって、その人自身に残り続けます。

この業力は、結果として現れるまで決して消えることがありません。これを「業力不滅」といいます。植物の種は腐ることがあっても、この業力はどれだけ時間が経っても消滅しないのです。

現在は過去の結果、未来は現在の結果

この業力は、すぐ結果を出すこともあれば、数十年後、あるいは今生では現れず、来世に現れることもあります。

仏教では、私たちの生命は、

  • 過去世(生まれる前)
  • 現在世(生まれてから死ぬまで)
  • 未来世(死んだ後) という三つの世(三世)を流転し続けていると教えます。因果の道理は、この三世を貫いているのです。

今、身に覚えのない不幸に苦しんでいるとすれば、それは過去世にまいた悪い種が、時を経て現れたのかもしれません。同様に、今まいている善い種は、未来の自分を必ず幸せな運命へと導きます。

この世で悪事を働き、捕まらずに一生を終えたとしても、その悪い業力は消えることなく、必ず次の世界で報いを受けるのです。


外道を捨てて内道(仏法)へ

ここまで解説してきた「因果の道理」は、厳粛で揺るぎない、私たちの運命をつくる仕組み・法則です。

だから、神社に行って手を合わせて祈ったり、縁起を担いだり、日の善悪を気にしたり、運命を占ったり、そんな道理に外れた教えを、いくら信じても幸せにはなれません。

江戸時代の有名な儒学者、太宰春台は、当時の浄土真宗の人たちのことを次のように書いています。

如何なる事ありても祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず。愚なる小民・婦女・奴婢の類まで皆然なり。

— 太宰春台

どんなことがあっても祈祷などすることはなく、病気になっても占いやまじないや護符とか符水を用いることがない。そんな迷信には関わらなかった。これは どんな立場の人でも女性や子供にいたるまでも、すべての人がそうだった。

この江戸時代の門徒の姿からも分かるように、「自分の運命は、神や占いで決まるのではない、自分の行いで決まるのだ」。「だから、幸せになるには、悪いことをやめて、善いことをせねば」と実行するのが、仏法者です。

「善い行いはしなくてもいい」などと、善を否定するのは、親鸞聖人の教えでも、仏法でもない、道理から外れた「外道」の考えです。

人生にはいろいろな苦しみがありますが、その原因を神や占いに求めたり、他人のせいにしたりして、恨み呪っている間は、心の平安は訪れません。「自分が悪かった」と悪因悪果・自因自果を認めた時、それまでの苦しみがスーッと抜けていくのです。

では、結局、「悪人こそ救われる」とはどういう意味なのかについては、また別の記事でお話しいたします。

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参考動画: 悪人正機なのに なぜ善のすすめなのか