私たちは日々、「どうすれば幸せになれるか」を考え、さまざまなものを手に入れようと奔走しています。しかし、その一方で「自分ほど不幸な人間はいない」と溜息をつく人も少なくありません。
では、一体「この世で最も不幸な人」とは、どのような人のことを指すのでしょうか。仏教の視点、そして親鸞聖人の教えを通して、その真実の姿を深く見つめてみましょう。
「この世で最も不幸な人」とは?
皆さん、この世で最も不幸な人というと、どんな人を思われるでしょうか。
一般的には、経済的に困窮している人、つまり「お金のない人」を思い浮かべるかもしれません。今日食べる米もない、住む場所にも困っている。そんな貧乏な人は不幸に決まっている、という考え方もあるでしょう。
あるいは、「健康を害して病気で苦しんでいる人」はどうでしょうか。病院のベッドで痛みや苦しみにうめいているような姿を見れば、誰もが「お気の毒だ、不幸な方だ」と感じるはずです。
さらに、身寄りがなく「孤独でいつも1人ぼっちの人」を、寂しく不幸な人だと定義する方もあるかもしれません。
これらはいずれも、ある面ではそのとおりだといえます。肉体的な苦痛や経済的な不安、社会的な孤立は、私たちの人生に重い影を落とします。
しかし、視点を変えて考えてみてください。
たとえお金に恵まれ、体も健康で病気一つなく、友人もたくさんいて、家庭でも職場でも恵まれているような人であったとしても、その人が「いつもいつも不平不満ばっかり言って文句を言う」という人だったらどうでしょうか。
果たしてその人を、心から「幸せな人だ」と呼べるでしょうか。
逆に、たとえ生活が貧しくても、けなげに元気に生きていらっしゃる方もあります。重い病気に苦しみながらも、その制約の中で自分のできることを精一杯楽しみ、前向きに過ごされている方もあります。
そうした姿を見るとき、私たちは「幸せとは外側の条件だけで決まるものではない」ということに気づかされるでしょう。
孤独が不幸の全てではない
また、「孤独」ということについても考えてみましょう。
実はこの孤独自体が、必ずしも寂しいことや不幸なことであるとは限りません。むしろ、学問や芸術の世界で偉大な業績を成し遂げる人は、孤独であったという方が非常に多いのです。
万有引力の法則を発見したアイザック・ニュートンは、科学者・数学者として人類の歴史に残る偉大な業績を築きました。しかし彼は、子供の頃からずっと孤独な環境に身を置いていたといいます。彼はその孤独に耐え、自分自身と向き合う中で真理を追究し、あれだけの偉人、偉大な科学者になったのです。
仏教を説かれたお釈迦さまもまた、同じ道を歩まれました。29歳で王子の地位を捨てて城を出られましてから、各地に師匠を求めて転々と修行を重ねられました。
しかし、最後は「無師独悟(むしどくご)」といわれる境地に至られます。これは、師匠をもたず、たった一人で、誰にも頼らずにさとりを求められたということです。
そして35歳12月8日の明け方、ついに無上のさとりである「仏のさとり」を開かれました。これが仏教の開祖である釈迦という方です。お釈迦さまは最後、孤独だったのです。独りだったのです。たった一人で自分自身の心と向き合われ、そして真理をさとられた。
ですから、孤独自体が不幸だとは言い切れません。むしろ、孤独であるからこそ、群れているときには得られない「強さ」を持ち、深い真理に到達できるという側面があるのです。
最も不幸なのは「感謝の心」がない人
では、条件や環境にかかわらず、「この世で最も不幸な人」とは一体どんな人なのでしょうか。
ここに、親鸞会の「1日1訓カレンダー」というものがあります。これは日めくりで、毎日毎日、私たちが生きるうえでの大事な心構えや、教訓となる言葉を教えていただいているものです。
その25日のページには、次のような言葉が記されています。
この世で最も不幸な人は
感謝の心のない人である
感謝の心。これこそが人生において最も大事なものであり、この心がある人こそが本当に幸せな人であると教えられるのです。
感謝の心といいますと、一言でいえば「ありがとう」という心です。日本能率協会の調査によると、仕事上で言われて最も嬉しい言葉は、男女ともにこの「ありがとう」だったそうです。確かに、誰かに「ありがとう」と感謝されたら、温かい気持ちになります。また、日本語でいちばん好きな言葉を問うアンケートでも、「ありがとう」が第1位に選ばれたという結果もあります。
この「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難い(ありがたい)」という言葉から来ています。文字通り「有ることが難い」、つまり「めったにないことなんだ」という意味です。めったに起こらないような、貴重で尊いことが今ここにある。その事実に気づいたとき、「ああ、有り難い。ありがとう」という感謝の心が生まれるのです。
私の先生である高森顕徹先生が書かれた『光に向かって123のこころのタネ』という本があります。以前から親しまれていた本ですが、昨年、新版として新たに発行されました。その18ページには、「しばらくの縁」という言葉が綴られています。
この世は皆、しばらくの縁である。
しばらくの間、夫であり妻であり、子供であり親なのだ。
そうと知れば、一瞬一瞬の縁を大切にせずにおれなくなる。
これは大変、心にしみるお言葉です。夫であり妻であること、親であり子であること。そうした夫婦や親子の関係も、実はすべて「しばらくの縁」に過ぎません。ずっと永遠に、いつまでも続くものではないのです。
私たちは、今の幸せや人間関係が「いつまでも変わらない」と錯覚しがちです。
そう思い込んでいるから、ついつい身近な人を大切にしようという気持ちが疎かになり、感謝を忘れてしまいます。
「これは当たり前のことではなく、有り難いことなんだ。いつまでも続くものではなく、しばらくの間だけのことなんだ」と深く自覚すれば、今この一瞬一瞬の縁を、大切にせずにはいられなくなるはずです。
「ありがとう」の心と「当たり前」の心
「夫がいて当たり前」「妻がいて当たり前」。
私の立場からいえば、家に帰ったら妻がいてくれて、夕食を作って待ってくれる。こうした日常を「当たり前」だと思ってしまうと、そこに感謝の心は失われてしまいます。
「こうして夕食を準備してくれるだけでも本当にありがたいことだ。これもいつまでも続くことではないのだな」と思えばこそ、自然と感謝の気持ちが湧いてきます。
ですから、感謝の心と正反対の位置にあるのが「当たり前」だと思う心です。「いるのが当たり前」「夕食ができているのが当たり前」と考えてしまえば、感謝は生まれません。それどころか、「もっと上手に作れないのか」「もっと豪華な料理はないのか」といった不平不満が湧き上がってきます。
いつもブツブツと家族に当たったり、職場で文句ばかり言ったりしている。仏教ではこれを「愚痴(ぐち)」といいますが、そうやって愚痴をこぼしてばかりいる人は、やはり感謝の心がない人だといえるでしょう。
あらゆることを当たり前だと思い込み、「なぜもっとこうならないのか」と自分の要求ばかりを突きつける。それが思い通りにいかないと、不平不満となって周囲に当たり散らす。そのような状態で生きる人は、最も不幸な人ではないでしょうか。
親子の関係についても、思い出すことがあります。
私は昔、田舎から東京の大学に進学し、学生生活が忙しかったこともあって、しばらく帰省しませんでした。ある年末、久しぶりに夜行列車で帰省することになり、朝、最寄りの駅に到着しました。すると、駅のホームには父が迎えに来てくれていました。
田舎の駅ですから人はまばらですが、それでも家族の帰りを待つ親御さんが何人かおられました。私の父は少し背が高かったので、遠くからでもすぐに分かります。私が列車からホームに降りると、父は私を見つけて「おー」と大きく手を挙げたのです。
息子の私としては、そんなに目立つように手を挙げなくてもすぐに分かるし、人目もあるから照れくさい。なんだか恥ずかしくて、車に乗って家に帰る途中、「父さん、あんな駅で大きな声を出して手を挙げなくていいよ」と言ってしまいました。父は「まぁ、そうだな」と苦笑いしていましたが、その後も帰省するたびに、やはり大きな手を挙げるのです。息子が帰ってきたことが、よっぽど嬉しかったのでしょう。
今にして思えば、本当にありがたいことだったと痛感します。父は十数年前に亡くなりましたが、生きている間は「照れくさいな、そんなことするなよ」と反発したくなることもありました。しかし、父がいなくなってみると、あのような姿こそが本当に有り難いものであったと、申し訳ないことを言ったなと深く反省させられます。
自分に子供ができ、たまに娘が帰ってくるときに感じる喜びを思うと、あの時の父の気持ちがよく分かります。親子の関係も決して永遠ではなく「しばらくの縁」であるという先生のお言葉が、今さらながら胸にしみてくるのです。
それを「有り難い」と受け止めるからこそ、感謝が生まれます。しかし「親が子供を迎えに来るのは当たり前だ」と慢心してしまえば、そこには感謝も幸せもありません。
当たり前が「愛欲」を生む
ここで、私の知り合いの女性の体験談をお話ししましょう。彼女は関西出身で、4歳の頃から音楽教室に通い、エレクトーンを演奏することに生きがいを感じていた、いつもニコニコとしている明るい女の子でした。
しかし、彼女は幼稚園の頃から、心に「生きづらさ」を抱えていたといいます。運動が苦手で外遊びの輪に入れず、部屋で一人ぽつんと過ごすことが多かった彼女は、常に不安を感じていました。小学2年生の時には、友人関係の板挟みに悩みました。3人で会話していても彼女はいつも聞き役で、たまに自分から話をすると「それで?」と周囲から「オチ」を求められたそうです。関西の子供たちは、日常会話にさえ笑いのオチを求めるのかと驚かされますが、彼女はそれ以来、自分からしゃべるのが怖くなってしまいました。
そんな彼女のクラスに、ある転校生がやってきました。その子はピアノが非常に上手で、コンクールでイタリアのローマに行くような、輝かしい才能を持った子供でした。二人は仲良くなり、一緒に作曲をしたりピアノを弾いたりして、音楽室で過ごす時間が増えました。「夢のように楽しい日々でした」と彼女は振り返ります。
ところが、小学5年生になってクラスが分かれると、その転校生はまた別の友達と仲良くするようになりました。彼女はそれが面白くありません。何とか彼女を独り占めしたい、自分だけの友達でいてほしいと考え、その子に執着しました。しかし、その身勝手な振る舞いは相手に嫌われ、周囲からも「自分勝手な子だ」と疎まれるようになってしまったのです。
結局、彼女は独りぼっちになり、悲しくて寂しくてトイレで泣いたといいます。小学5年生の出来事とはいえ、これは大人の私たちにも通じる話ではないでしょうか。誰か好きな人ができると、ずっと一緒にいたい、自分だけのものにしたい、独り占めしたい、他の子と話さないでほしい……。こうした感情は、男女の間でもよく見られるものです。
本来、それまでの楽しい日々に「感謝」しているうちは幸せなのです。しかし、それが「当たり前」になり、ずっと続くべきだと思い込むと、そこには醜い「欲」が湧いてきます。
親鸞聖人が説く「愛欲の広海」と「名利の大山」
親鸞聖人は、人間のこの姿を「愛欲(あいよく)の広海(こうかい)に沈没している」と表現されました。
あの人が好きだ、この人は嫌いだ。かわいい人は自分のそばに置いておきたいけれど、嫌な人は遠ざけたい。そうした自己中心的な心が、広い海のように際限なく広がっているというのです。
ここで、法蔵館の『真宗聖典』364ページに記されている「悲歎述懐(ひたんじゅっかい)」の文章を引用しましょう。
悲しきかな、愚禿鸞、
愛欲の広海に沈没し、
名利の大山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、
真証の証に近くことを快まず。
恥ずべし、傷むべし。
親鸞聖人は、「親鸞は、愛欲の広海に沈み切っている。名利の大山に惑わされている。情けない、恥ずかしいことだ」と、ご自身の姿を赤裸々に告白されています。
「名利(みょうり)の大山」の「名」とは、名誉欲のことです。人から褒められたい、嫌われたくない、高く評価されたい、有能だと思われたい、人の上に立ちたい。そうした名誉を求める心が、大きな山のようにそびえ立っている。
「利」とは利益欲です。お金が欲しい、財産がほしい、自分だけが得をしたい。そうした「欲しい、欲しい」という心が、親鸞の中には山ほどあると苦しまれているのです。
特筆すべきは、この言葉が阿弥陀如来に救い摂られ、絶対の幸福になられた後に語られたものであるということです。煩悩(ぼんのう)というものは、死ぬまで変わりませんし、なくなりません。阿弥陀仏に救われた後も、愛欲の広海も名利の大山も、そのままであり続けるのです。
普通、立派な人といわれる人は、自分の中にそんな醜い心があっても、隠そうとするものです。しかし親鸞聖人は、ご自身の姿を隠すことなく『教行信証』に書き記されました。自分はそれほどまでに愚かしく、煩悩にまみれた存在であると。
私たちは、恵まれた環境が当たり前になると、そこからさらに「欲」を膨らませていきます。好きな人を独占したい、自分の思い通りに動かしたい。その本性は、徹底した「我利我利(がりがり)亡者」です。我利我利とは、「わが身の利益、わが身の利益」ということ。自分さえよければいい、自分さえ得をすればいいと考え、相手の都合や立場を顧みず、自分の思いを通そうとする心です。これは実に愚かしく、恐ろしい心です。
私たちは死ぬまで、この心から逃れることはできません。そして、その心によって罪を造り続けてしまいます。そのような罪深い存在であるからこそ、阿弥陀仏は「そのまま救う」と誓われ、浄土へと連れて行ってくださるのです。しかし、自分が恐ろしい心を持っているという事実は、常に反省し、気をつけていかなければならないことでもあります。
仏法に照らされて知る自己の姿
阿弥陀如来に救い摂られた人は、間違いなく浄土へ往ける身(正定聚)になります。しかし、もしこの「当たり前」と思う心や、不平不満の心を抱えたまま仏法に遇うことがなければ、私たちはただ苦しみの中で一生を終えてしまうでしょう。
だからこそ、私たちは今の恵まれた人間関係や環境に感謝し、「ありがとう」という心を常に持ち続けなければなりません。
仏法を聞き求めていくと、自分自身の本当の姿がだんだんと知らされてきます。自分の心にはどのような醜さが潜んでいるのか。頭で「不満を言ってはいけない」という道理や理屈を理解するのは簡単ですが、私たちの心はなかなか理屈通りには動きません。
阿弥陀如来は、そんな「どうしようもない心」を持った私たちの姿をすべてお見通しの上で、そのまま救ってくださいます。しかし、救われたからといって、そのような心を持っていて良いということではありません。阿弥陀仏の光に照らされれば照らされるほど、自分の醜さが浮き彫りになり、常に懺悔(さんげ)し、反省せずにはおれなくなるのです。
これを仏教で「機の深信(きのじんしん)」といいます。自分は救われがたい極悪深重の存在であると深く知らされることです。同時に、そんな救われない悪人が今、現に救い摂られているという驚きと喜びを「法の深信(ほうのじんしん)」といいます。この二つは、車の両輪のように常に同時に存在するものです。
懺悔と感謝の心
今日は、「この世で最も不幸な人は、感謝の心のない人である」というお話をしました。
ついつい当たり前だと思ってしまうと、感謝の心は失われ、不平不満ばかりが出てきます。しかし、その「不平不満ばかりの心」こそが、私たちの偽らざる本性であるということも、知っていただきたいのです。
阿弥陀如来は、私たちのそんなありのままの姿を、誰よりもよくご存知です。その上で、そんな者を見捨てず、そのまま救い、浄土へ連れて行くと本願(約束)を建ててくださったのです。これはとてつもない大きな慈悲です。
だからといって「自分はこのままでいいんだ」と開き直るのではなく、仏法を聴くことで常に自分の心を知らされ、反省させられることが大切です。阿弥陀仏の光明に照らされて、痛切な懺悔をさせられる。その経験は、実は毎日のようにある尊いことなのです。
最後に、親鸞聖人の『浄土和讃』から、尊いお言葉を紹介します。
南無阿弥陀仏をとなうれば、
観音・勢至はもろともに
恒沙塵数の菩薩と、
かげのごとくに身にそえり。
「観音・勢至(かんのん・せいし)」とは、阿弥陀如来の両脇に控える脇侍の方々です。観音菩薩は阿弥陀仏の「慈悲」を、勢至菩薩は阿弥陀仏の「智慧」を象徴しています。阿弥陀仏は、厳しさと優しさの両面を兼ね備えた、智慧と慈悲の仏さまです。
その阿弥陀仏の救い(南無阿弥陀仏)を頂いて称えれば、観音・勢至をはじめ、ガンジス河の砂の数ほど(恒沙塵数)の多くの菩薩方が、影が形に添うように、いつも私たちを見守ってくださるのです。
煩悩を抱えたまま、この世で「絶対の幸福」に生かされる。これほど有り難いことはありません。毎日失敗だらけの私も、この教えに出遇えたことは、本当に幸せなことだと感じています。
どんなに物質的に豊かであっても、健康であっても、周りに人がいても、そのことに感謝できなければ、真の幸せを感じることはできません。今ある縁を「当たり前」と思わず、「しばらくの縁」として大切にする。そして心から「ありがとう」と言えるよう、光に向かって進ませていただきたいものです。
今日の話が、皆さんが生きるうえでの心の持ちよう、そして仏法という深い教えに触れるご縁となれば幸いです。
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