谷川俊太郎も探した「とんでもないおとし物」の正体とは? 人生の最後に悔いを残さない「なぜ生きる」の答え

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日本を代表する詩人・谷川俊太郎が「とんでもないおとし物」と表現したもの。それは、私たちの誰もが人生のどこかで向き合うことになる「なんのために生きるのか」という問いです。この記事では、“理想”とされる人生の先にある空虚さを乗り越え、「いつ死んでも悔いなし」と満足できる世界のあることを、仏語を通して知っていただきたいと思います。

「何か忘れている感覚」の正体

出先で傘を忘れる、財布を落とす。私たちは日常で様々な忘れ物をします。 しかし、替えがきくものであれば、大きな問題にはなりません。

ですが、一度きりの人生そのものに、取り返しのつかない「忘れ物」があるとしたらどうでしょうか。

日本を代表する詩人、谷川俊太郎さん(1931-2024)は、その感覚を「かなしみ」という詩でこう表現しています。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

— 谷川俊太郎「かなしみ」

「何かとんでもないおとし物」。 この詩に、ドキッとした方もおられるかもしれません。日々の忙しさの中で、心の奥底で感じている「何か大切なことを見過ごしている」という感覚。その正体はいったい何なのでしょうか。

忘れているのは「生きる目的」

最期まで「目的」を考えない私たち

ある仏教の講師が、仏法を聞くようになったきっかけは、高校時代の恩師の言葉だったと言います。 その先生は、人生を列車に例えた詩を引用し、こう語ったそうです。

列車が終着駅に近づくと、親切な車内放送が始まる。 「皆さま お疲れさまでした。お忘れ物のないように いま一度 ご確認ください」と。 終着駅だから、嫌でも降りねばならない。 その時に、はじめて重大な忘れ物をしていたことに気づく。

その重大な忘れ物とは、他でもない、「私は、何のために生きているのか」と尋ねることを忘れていた、という事実です。

私は 何のために生きているのかを尋ねることを忘れていた。
ただ何となく汽車に乗り、ただ何となく移り変わる景色に心を奪われていたのではなかったか?

私たちは、ただ何となく人生という汽車に乗り、移り変わる日々の景色に心を奪われているうちに、最も大切な問い「人生の目的とはなにか」を忘れてはいないでしょうか。

電車から目を輝かせて窓を眺める
車窓から見える景色はどこか儚い。あっという間に終わるから。

「理想の人生」は目的ではない

「いや、自分はちゃんと目的を持って生きている」という人もあるかもしれません。

良い学校に入り、良い会社に就職し、結婚して家庭を築き、出世して定年を迎える。これこそが、多くの人が思い描く「充実した人生」であり、その理想に向かって「主体的に」生きている人は輝いても見えます。

しかし、ある本には、私たちの人生が次のように描かれていました。

あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をして、それなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあと、どこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して、翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をして、せいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。

— 『完全自殺マニュアル』

どうでしょうか。「どうせこの程度のものだ」と言われれば、そうかもしれない、と頷く人が多いのではないでしょうか。

この「理想の人生」に、「生まれてきてよかった」という心からの喜びはあるのかと問われると、答えに窮します。

苦笑い
「あなた、幸せな人ね」と言われたら苦笑いするしかない

放送作家、タレント、そして東京都知事まで務めた青島幸男さん。まさに成功者といえる人生を送った彼が、晩年に家族にこう語ったといいます。

オレの人生は客観的に見たら本当に幸せな人生だよな。

— 青島幸男氏の晩年の言葉

他の人と比べたら、これ以上ないほど幸せな人生だった。しかし、この言葉には「主観的な満足は、無かった」というアキラメにも似た響きが感じられないでしょうか。

「なぜ生きる」の答えは仏教に

どうすれば、腹の底から満足できるのか。「これ一つ果たしたら、いつ死んでも悔いなし」と言えるのか。人生究極の目的を、誰しも求めています。

「苦しくても生きねばならない理由」を知りたい!

思えば、赤ちゃん時代は泣きじゃくり、反抗期もあり、学生時代はなんで勉強するのか悩んだり、仕事や育児が始まると、「こんな日々が続くのか」と、ふと絶望したり。「なぜ生きる」の疑問は常に心の底にありました。

その問いは決して“忘れたほうがいいもの”ではありません。

なぜなら、その答えがあるからです。「なぜ生きる」の答えは、仏教にあるのです

「幸せ」になるための人生

約2600年前、仏教を説かれたお釈迦さまは、お生まれになった時に、右手で天を、左手で地を指さし、こう言われたと伝えられます。

天上天下唯我独尊

— お釈迦さま

これを、「ただ私(釈迦)一人が偉いのだ」と読む人がありますが、お釈迦様が、そんな子供じみたことを言われるはずがありません。

ここでの「」とは、お釈迦様お一人のことではなく、この世に人として生を受けた、すべての人間のことを指しています。

「天上天下」 : この大宇宙で
「唯我」 : ただ私たち人間だけに
「独尊」 : たった一つの尊い目的がある

この万人共通唯一の目的とは、「変わらない幸せ」になることだと、仏教では教えられています。

「天上天下唯我独尊」は、人間に生まれてきた究極の目的の現存をお釈迦様が宣言されているお言葉なのです。

目的は「後生の一大事」の解決

「幸せ」になるのが人生だといわれても、その人生自体があまりにも短く、あっという間に終わってしまいます。

一生過ぎ易し。

— 蓮如上人『白骨の御文章』

これは、浄土真宗を再興された蓮如上人(1415-1499)のお言葉です。 人生は加速度的に過ぎ去ることを示した「ジャネの法則」は有名でしょう。

ジャネの法則

フランスの哲学者ジャネ(1859-1947)が提唱した「年を取るほど、1年間が短く感じる」という法則。 その理由を、ジャネはこのような計算をして、説明しています。

  • 5歳の子供にとっての1年間は人生の5分の1。
  • 対して、50歳の人にとっての1年間は50分の1。
  • つまり、10倍、時間の流れを早く感じていることになる。加齢によって時間の体感速度が増大していくのだ。

また、人の命はいつ、どんな順番で尽きるか分かりません。

されば人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば

— 蓮如上人『白骨の御文章』

「老少不定」とは、年老いた人も若い人も、死ぬ順番は定まっていないということです。

だからこそ蓮如上人は、この手紙の最後に、全人類にこう呼びかけておられます。

誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

— 蓮如上人『白骨の御文章』

これは、「人間はいつ死ぬか分からない、はかない身なのだから、誰の人も早く、後生の一大事を心にかけなさい」ということです。

後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)

「後生」とは死後のこと。「死んだらどうなるのか」という、すべての人にとって最も重大な問題のことです。死の問題の解決なくして、変わらぬ幸せはありえません。

解決の道はただ一つ、「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」と示されています。

阿弥陀仏については、別の記事で詳しく解説していますが、「阿弥陀仏を深くたのむ」とは、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、本当の幸せになることです。

「念仏申す」とは、救っていただいた大恩に対する、感謝の念仏を称える身になることです。

「人間に生まれてよかった」と喜べる

阿弥陀仏の本願に救われ、「なぜ生きる」の答えがハッキリした時、「生まれてきたのはこの幸せになるためだったのか!」という生命の歓喜があふれます。

その時こそ、「天上天下唯我独尊」(人生究極の目的があるぞ)のお釈迦様のお言葉が、「誰の人もはやく」と叫ばれる蓮如上人の呼びかけが、「このためだったのか」と、心の底からうなずかされるのです。

「とんでもないおとし物」とは、「なぜ生きる」の答えです。生きる目的がなければ、生きる意味がなくなってしまいます。

この重大な忘れ物の存在に気づかれた方は、ぜひ続けて仏法を聞いていただきたいと思います。それこそが、本当の幸福への最短の道なのですから。

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参考動画: 人生の重大な忘れ物「なぜ生きる」│天上天下唯我独尊・白骨の御文章