浄土真宗の真髄:阿弥陀仏の本願に生かされる「一心一向」の教え
浄土真宗親鸞聖人の教えというのは、仏教の真髄を説き明かされたものです。仏教の真髄とは何か。それは、お釈迦さまが45年間の長きにわたって、「これ一つ」を説かれたといわれる「阿弥陀仏の本願」に集約されます。
この阿弥陀仏の本願に救われることこそが、仏教を学ぶ究極の目的なのです。
すべての仏が説く「ただ一つの救い」
地球上において、この阿弥陀仏の本願を説かれたのはお釈迦さまであります。
大宇宙には「十方の諸仏」といわれる数えきれないほどの仏さまがいらっしゃいますが、それらすべての仏方はみな、この阿弥陀仏の本願をただ一つ、異口同音に説かれているのです。
唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)
まさに仏教の真髄とは、「阿弥陀仏の本願」であり、「阿弥陀仏による救い」そのものなのです。
この「阿弥陀仏の本願」とは、阿弥陀仏という仏さまがなされているお約束のことです。漢字で書けば非常に厳かな36文字になりますが、私の先生である高森顕徹先生が、いつも親鸞会の会館でご説法なされる時には、このように平たい言葉で分かりやすく教えてくださいます。
- 「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」
- 「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」
これが、阿弥陀仏という仏さまが私たちに誓われた「お約束」です。
蓮如上人が明かす本願の核心:『御文章』2帖目第9通
では、この阿弥陀仏の本願を、中興の祖といわれる蓮如上人はどのように表現されているでしょうか。今日はそのことを詳しくお話ししましょう。
蓮如上人がお書きになった『御文章』2帖目第9通(法蔵館『真宗聖典』810ページ)には、「忠臣貞女・外典」という見出しがついています。室町時代に生きる当時の人々にとって分かりやすい表現で、阿弥陀仏の本願をこのように記されています。
阿弥陀仏の誓いましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、如何なる罪深き機なりとも救いたまわん、といえる大願なり
「阿弥陀仏の約束されていること(本願の内容)は、一心一向に『われ(阿弥陀仏)』をたのむ人は、どんなに罪が重い人であっても必ず助ける、という大きな願いである」と仰っているのです。
ここで最も重要な言葉が、「一心一向(いっしんいっこう)」です。
「一心一向」とは何か ― 二仏を並べざる心
蓮如上人は、一心一向について次のように定義されています。
一心一向というは、阿弥陀仏に於て二仏を并べざる意なり
心を一つにして、阿弥陀仏という一仏に向かう。これをお釈迦さまのお言葉では「一向専念(いっこうせんねん)」といいます。
阿弥陀仏一仏に向き、阿弥陀仏だけを信ずる。それはすなわち、「二仏を並べない」ということです。「阿弥陀さまも信じるけれど、こちらの仏さまもよかろう」といった二股をかけるような心を持たない。これが一心一向です。
仏教の結論は「一向専念無量寿仏(阿弥陀仏)」であり、この一心一向にならなければ、阿弥陀仏に救われることはありません。心が弥陀に一心になったとき、弥陀の救いにあえるのです。
世間的な道理:忠臣と貞女の例え
この「弥陀に一心になる」という大切さを、蓮如上人は人間の世界のことに例えて教えられています。
この故に、人間に於ても、まず主をば一人ならではたのまぬ道理なり
今から500年前、室町時代の価値観では「主人は一人」と決まっていました。蓮如上人は、仏教以外の書物である「外典(げてん)」(ここでは司馬遷の書いた中国の歴史書『史記』を指します)を引用し、こう説かれています。
忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず
忠臣と貞女の教訓
| 原文 | 意味 |
|---|---|
| 忠臣(ちゅうしん)は二君に仕えず | 忠義な家臣は、二人の君主に仕えることはない。 |
| 貞女(ていじょ)は二夫を並べず | 貞淑な女性は、二人の夫を持つことはない。 |
例えば、歌舞伎やドラマで有名な『忠臣蔵』の赤穂浪士。大石内蔵助をはじめとする四十七士は、主君・浅野内匠頭ただ一人を主として仰ぎました。大石は他藩から好条件で誘われてもすべて断り、亡き主君のために仇討ちを果たしました。この物語に日本中、そしてアメリカの大統領セオドア・ルーズベルトまでもが感銘を受けたのは、その「一人の主に尽くす姿」が尊いからでしょう。
もし「あの人も主人、この人も主人」とホイホイと別の主に仕えるようでは、人としての節操が疑われます。また、女性についても同じです。「あの人も夫、この人も夫、夜の夫はこの人」などという妻がいれば、世間は困惑し、その不誠実さを非難するでしょう。
蓮如上人は仰います。「世俗の書物である『史記』にさえそう書かれている。ましてや、私たちの魂の一大事、後生の一大事をお任せする仏さまは、阿弥陀仏一仏でなければなりませんよ」と。なぜなら、阿弥陀仏にしか解決するお力がないからです。
「阿弥陀仏だけ」は排他的か?
こうお話しすると、「阿弥陀さまだけを拝んで、他の仏さまに向かないのは排他的で了見が狭いのではないか」「他の仏さまに申し訳ない」と感じる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、蓮如上人はその誤解を先回りして解いておられます。
阿弥陀如来は三世諸仏・十方諸仏の本師・師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや
阿弥陀仏は、大宇宙のすべての仏さま方の「本師・師匠(先生)」なのです。国でいえば大統領のような、最も力のある存在です。
お釈迦さまも、大日如来も、薬師如来も、すべての仏方は阿弥陀仏のお弟子です。そのお弟子である諸仏方は、みな口をそろえてこう仰っています。「申し訳ないが、我々にはあなたを助ける力がない。あなたの後生の一大事を救えるのは、大宇宙で阿弥陀仏だけなのだから、阿弥陀仏一仏に向かいなさい(一向専念阿弥陀仏になりなさい)」
師匠である阿弥陀仏に私たちが一心一向になることは、弟子の諸仏方にとって最大の喜びであり、彼ら自身の願いでもあるのです。もし「なぜ、弥陀ばかりを拝んで、わしを拝まないんだ」と怒る仏がいたら、それはニセモノの仏です。
誇り高き「一向宗」の歴史と現代の危機
親鸞聖人は徹底してこの「一向専念無量寿仏」を教えられました。そのため、浄土真宗は他宗の人々から「一向宗」と呼ばれるようになったのです。
江戸時代の儒学者・太宰春台は、浄土真宗の門徒が病気や困難に直面しても、決して占いやまじない、あるいは阿弥陀仏以外のものに手を合わせない姿を見て、「貧しい者や子供に至るまで徹底している。親鸞聖人の教えの力は凄まじい」と驚嘆しています。
しかし残念なことに、明治以降、そして戦後を経て、この「一向専念」の精神は崩れてしまいました。戦時中、本願寺の法主自らが伊勢神宮に参拝するなど、一向専念を破壊する行為に及んだからです。これは浄土真宗にとって自殺行為であり、現在の浄土真宗は、本来の「一向宗」の姿を失いつつあります。
しかし、親鸞聖人や蓮如上人が命懸けで伝えようとされたのは、あくまでも「一心一向に弥陀をたのめ」という一点なのです。
南無阿弥陀仏:万善万行の総体
蓮如上人はさらに、一心一向に弥陀をたのむことの意味を、「南無阿弥陀仏」という名号を通して明かされています。
「南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、その他万善・万行も、悉くみな籠れるが故に、何の不足ありてか諸行・諸善に意を留むべきや」
「南無阿弥陀仏」の六字の中には、あらゆる神々、仏、菩薩のお力、そして大宇宙のすべての善(万善万行)が収まっています。これこそが大宇宙最高の宝です。
この「南無阿弥陀仏」一つで、私たちは絶対の幸福になれるのであり、阿弥陀仏の浄土(無量光明土)へ往生できるのです。それなのに、何の不足があって、自分の行った些細な善や称える念仏をあてにし、「南無阿弥陀仏だけでは足りないから、付け足そう」などと考える必要があるでしょうか。
「南無阿弥陀仏だけでは不足だから、自分の善を足しにして助けてもらおう」という心は、本願を疑っている証拠です。
ここで、注意しなければなりません。蓮如上人は「諸善をやるな、やめよ」と仰っているのではありません。「自分のやった善を救いの足しにしようとする、その自力の計らい(疑いの心)を捨てよ」と教えられているのです。
「すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善・万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり」
南無阿弥陀仏は功徳の結晶です。これ一つを頂けば、今生も未来も最高無上の幸せになれる。これほど心強いことはありません。
結び:善知識に順うということ
仏教の結論は、阿弥陀仏一仏に向かい、阿弥陀仏だけを信じることにあります。
- 一心一向に弥陀をたのむ
- 後生の一大事を、阿弥陀仏に100パーセントお任せする
- 一切の計らい(自分の思い)を捨てる
自分の思いをすべて捨て、阿弥陀仏一仏にお任せし切った時、「阿弥陀仏の本願はまことでございました」と疑いが晴れる瞬間が訪れます。決して二仏を並べてはなりません。
この「一心一向に弥陀をたのめ」と正しく勧める方を「善知識(ぜんぢしき)」と呼びます。これを教えない者は「悪知識」であり、間違った仏教の指導者です。善知識に順えば仏に会えますが、悪知識に順えば正しい道を見失い、地獄に堕ちてしまいます。
これは私たちの永遠の幸福に関わる、極めて重大な問題ですから、よくよく知ってください。
本日は蓮如上人の『御文章』を通して、浄土真宗の、そして仏教の真髄についてお話しいたしました。
それでは、今日はここまでにしましょう。
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