「南無阿弥陀仏」の本当の意味とは?おまじないではなく特効薬
お葬式や法事、あるいは時代劇などで、誰もが一度は耳にしたことのある「南無阿弥陀仏」。「おまじない」ぐらいに思われていますが、それは全くの誤解です。この記事を読めば、「南無阿弥陀仏」は、いわば、どんな名医が処方する薬よりも素晴らしい、私たちを本当の幸せにする特効薬であることが分かられると思います。
幸せを求めるのが「人生」
「南無阿弥陀仏」とはなにか。本題に入る前に、まず、「南無阿弥陀仏」は私たちの「人生」とどのような関係があるのか、知らねばなりません。
「人生」といいましても、この地球上には80億もの人々がおります。皆、いろんな場所で、いろんなことを考えて生きているわけですが、結局、何を求めて生きているのか。
一言で言えば「幸せ」でしょう。「人生」は幸福になるためにある。
しかし、心からの満足、「人間に生まれてきてよかった」という喜びを、どれほどの人が感じているでしょうか。
あの虹きれいだなぁと思って虹を追いかけていくと、ふっと消えてしまう。何か幸せというのは、実態のない、雲を掴むようなものではないでしょうか。
たとえ一時的な喜びがあったとしても、それは夢のように過ぎ去ってしまいます。
そして、苦しみ悩んだ挙句に一生を終えていく。そんなとき、「何のために生まれてきたのだろう」「人生とは、こんなものだったのか」という虚しさを感じてしまうかもしれません。
心からの満足や喜びを味わうことなく終わっていく人生。 この、人間が共通して抱える根本的な問題こそが、「南無阿弥陀仏」が作られた理由へと繋がっていきます。
「阿弥陀仏」のお約束
そんな、苦しみ悩みながら一生を終えていく私たちの姿を、ずっとご覧になっていた仏様がおられます。それが、阿弥陀仏です。
大宇宙の仏方の「本師本仏」
お釈迦さまは、この阿弥陀仏のことを、ご自身の先生であると仰っています。そればかりか、大宇宙には数え切れないほどの仏様がおられますが、阿弥陀仏はそのすべての仏方の「王」であると説かれています。
諸仏の中の王なり。
すべての人を救いたいという「本願」
その全宇宙の仏の王である阿弥陀仏が、苦しみ悩むすべての人々をご覧になり、「なんとか本当の幸せにしてやりたい」という、一つの広大な願いを起こされました。
これを阿弥陀仏の本願といいます。仏教とは、お釈迦さまが、阿弥陀仏の本願ただ一つを説かれたものなのです。
「南無阿弥陀仏」とは
「すべての人を、必ず本当の幸せにしてみせる」――。そう誓われた阿弥陀仏は、その願いを果たすために、「南無阿弥陀仏」を完成されました。
あなたに“与える”ためだけに作られた「名号」
「南無阿弥陀仏」は名号ともいわれますが、その名号は、私たちが称えるための呪文や修行の言葉として作られたのではありません。
阿弥陀仏が、私たちに与えて救うためだけに作ってくださったものです。
親鸞聖人は、その御心を和讃(わさん)にこう記されています。
如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり
【意訳】
阿弥陀仏が願いを起こされた御心をたずねてみると、それは苦しみ悩む人々を決して見捨てることができず、「与えること(廻向)」を目的として、「南無阿弥陀仏」を完成された、広大な慈悲の心であった。
「廻向を首としたまいて」。
苦しんでいる人に何とかこれを与えて助けたいと、それだけを目的に南無阿弥陀仏をつくってくだされた。
与えることを目的として。与えることだけを考えられてつくられた。
苦しんでいる人を本当の幸せにしてやりたいという、阿弥陀仏の大きな慈悲の心が、南無阿弥陀仏という名号となって出来上がったのです。
これが「大悲心をば成就せり」ということです。
慈悲と智慧の結晶
阿弥陀仏には、私たちを助けたいという深い慈悲の御心と、それを成し遂げるズバ抜けた智慧(力)があります。 他の仏方では助けることのできない者をも救うことができるからこそ、「諸仏の王」といわれるのです。
「南無阿弥陀仏」の名号は、この阿弥陀仏の慈悲と智慧のすべてが詰まった結晶なのです。
【たとえ話】名医の薬を飲んで全快
阿弥陀仏と私たちの関係は、たとえるなら、医師と患者の関係です。
お医者さんが患者を何とか救ってやりたいと思われて薬を作ってくだされた。この薬にあたるのが「南無阿弥陀仏」です。
- 阿弥陀仏: 医者
- わたし: 患者
- 特効薬: 南無阿弥陀仏
しかし、せっかく出来上がったその薬も、患者が飲まなかったら病気は治らない。飲んで初めて全身に薬が効いて病気が治る。全快する。
この、阿弥陀仏が作ってくださった「南無阿弥陀仏」を、そのまま疑いなく受け取った心の状態を「信心(しんじん)」といいます。
自分で作り出す「信じる心」ではありません。阿弥陀仏から与えてくださる心です。
疑いなくハッキリする「信心決定」の瞬間
そして、その「信心」をいただく瞬間は、ぼんやりとしたものではありません。「頂いたのかなぁ」と思うような曖昧なものではなく、鮮やかにハッキリすると教えられています。これを「信心決定(しんじんけつじょう)」といいます。
あっという間もない一念で頂けます。だからハッキリするんです。火に触ったよりもハッキリします。
この信心決定一つで、絶対の幸福になることができ、いつ死んでも極楽浄土へ往ける身になるのです。
救われた喜びが「念仏」となってあふれ出す
では、「南無阿弥陀仏」と口に出して称える念仏とは、いったい何なのでしょうか。
「お礼」の念仏
信心決定して絶対の幸福に救われた喜びと感動から、称えずにおれなくなるのが念仏です。
もう嬉しいから口から 念仏が吹き上がるのです。
この関係を「信心正因(しんじんしょういん)・称名報恩(しょうみょうほうおん)」といいます。
- 信心正因: 極楽浄土へ往ける正しい原因は、阿弥陀仏からいただく信心ただ一つである。
- 称名報恩: 口に称えるお念仏は、助けていただいたご恩に対するお礼である。
救われたから、お礼の念仏を称えずにおれなくなる。この順番が非常に大切です。
「念仏を称えていたら極楽浄土へ往ける」というのではないのです。信心一つで往けるのです。
信心と念仏の関係について、さらに詳しく知りたい方は、信心為本と念仏為本についての記事もご覧ください。
まとめ:「名号」「信心」「念仏」の関係
名号「南無阿弥陀仏」――。それは、死者を弔う呪文でも、ご利益のあるステッカーでもありません。
それは、苦しみ悩みの絶えない私たちに、阿弥陀仏が何とかこれを与えて助けたいと、それだけを目的につくられた、いわば特効薬なのです。
名号: 特効薬
信心: 全快
念仏: お礼
お医者さんが患者を何とか救ってやりたいと思われて薬を作ってくだされた。これが「名号」。 飲んで病が全快して幸せになったのが「信心」。この信心一つで極楽浄土へ往ける。 そうしますと、もう嬉しいから口から「念仏」が吹き上がる。
名号は一念(一瞬)で頂けます。非常にハッキリします。 頂いて幸せになれるんです。絶対の幸福になれる。 「いやー、生きてる時にこんな幸せがあるんだなぁ」と、びっくりするような喜びが味わえます。 その嬉しさのあまり称えずにおれなくなるのが、お礼の念仏。
この「名号」「信心」「念仏」の関係をよく知っていただきたいと思います。
参考動画: 【南無阿弥陀仏】99%の人が知らない本当の意味