【仏教版】「死ぬ瞬間」―精神科医キューブラー・ロスが研究していたのは実は本当の死ではなかった
誰もが一度は、自分の死について考えたことがあるでしょうが、曖昧な想像しかできません。精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスさんは多くの人の最期を看取り、死へ向かう心のプロセスを分析しました。しかし、皮肉なことに、彼女自身が死に直面したとき、その心は理論では説明できないほどの苦悩にさいなまれたといいます。この事実は、「他人の死」を客観的に分析することと、「自分の死」として向き合うことの間には、とてつもなく大きな壁があることを教えてくれます。この記事では、まず現代の死生学の考え方とその限界点に触れながら、約2600年前にお釈迦さまが『大無量寿経』というお経の中で説き明かされた「臨終の心境」の真実へと迫っていきます。
「他人の死」の分析と「私の死」という現実
キューブラー・ロスが提唱した「死の5段階」
さて、人が死ぬ時の心境について考えるとき、まず名前が挙がるのが、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスさんです。2004年に亡くなった彼女の著書『死ぬ瞬間』は世界的ベストセラーとなり、現代の死生観に大きな影響を与えました。
キューブラー・ロスは、終末期医療のパイオニアで、何千人もの最期を看取った経験から、人が死を受け入れるまでの心のプロセスを5つの段階に分けました。
- 【第1段階:否認】 「まさか、自分がガンだなんて」「何かの間違いだ」。深刻な病の告知に対し、まず現実を拒絶する段階です。
- 【第2段階:怒り】 事実を受け入れざるを得なくなると、「なんで自分が!」という激しい怒りがこみ上げてきます。その矛先は、家族や医療関係者など、身近な人に向かいがちです。
- 【第3段階:取り引き】 次に、「神様、仏様、どうか助けてください。助けてくれたら真面目に生きますから」というように、何かの代償を払ってでも運命を変えようとする段階に入ります。
- 【第4段階:抑うつ】 取り引きが叶わないと悟ると、気力がなくなり、すべてに絶望して深く落ち込んでしまいます。
- 【第5段階:受容】 最後は、すべての感情が静まり、穏やかに死を受け入れる段階です。
この「死の5段階」は、死と向き合う人の心を理解する上で画期的な研究として、今も高く評価されています。しかし、この理論には、ある決定的な見落としがありました。
「死の専門家」が見せた苦悩
何千人もの死を看取り、愛の言葉で人々を励ましてきたキューブラー・ロスさん。しかし彼女自身が脳梗塞で倒れ、介護が必要な生活になったとき、その姿は一変します。
NHKのインタビューで、彼女は衝撃的な言葉を口にしました。
「自分は今までたくさんの人を愛の言葉で励ましてきたけれど、愛なんてヘドが出る」 「私を聖女とか聖人というものがいるけど、とんでもない。バカなこと言わないでちょうだい」
神に対して「ヒットラーよ」とまで言い放つ彼女の姿に、多くの人が驚き、「認知症になったのでは?」とささやく人さえいました。 しかし、映像の中の彼女は、眼光鋭く、意識はハッキリしています。それは紛れもなく、彼女自身の心の叫びでした。
一体なぜ、彼女はこれほど変わってしまったのか。 答えは一つ。それまで何千回と見てきた「他人の死」と、今まさに我が身に迫る「私の死」が、全くの別物だったからです。
動物園の虎と、ジャングルの虎
「他人の死」について考えることと、「私の死」に直面すること。この二つの違いは、どれほど大きいのでしょうか。
例えるなら、こうです。 「他人の死」を知るのは、動物園で檻の中の虎を見るようなもの。 虎は確かに恐ろしいですが、頑丈な檻があるので絶対に安全です。私たちは安心して、死というものを観察し、分析できます。
ところが、「私の死」に直面するのは、ジャングルで丸腰のまま虎に出くわすようなもの。 守ってくれる檻はありません。牙をむいて襲いかかってくる虎を前に、哲学や思想で考えてきた死のイメージなんて、一瞬で吹き飛んでしまいます。
キューブラー・ロスの研究も、いわば「檻の中」からの分析でした。しかし、いざ自分が檻のないジャングルに放り出された時、その心境は全く違うものになってしまったのです。
では、ジャングルで出くわす虎のような「私の死」を前にした時、私たちの心には一体何が起きるのでしょうか。
お釈迦さまが説く臨終の真実:心に沸き起こる「後悔」と「怖れ」
『大無量寿経』に説かれる「悔懼交至」
ジャングルの虎のような「私の死」に直面したとき、私たちの心はどうなるのか。その答えを、約2600年前にお釈迦さまが『大無量寿経』というお経の中に、ハッキリと説き示されています。
大命将に終らんとして悔懼交至る (たいみょうまさに終わらんとして けくこもごもいたる)
これは、一体どういう意味なのでしょうか。
- 大命(だいみょう):人間の命のこと。
- 将に終わらんとして:まさに終わろうとするとき、つまり臨終に。
- 悔懼(けく):「悔」は過去への後悔、「懼」は未来への怖れ。
- 交至る(こもごもいたる):後悔と怖れの波が、代わる代わる、際限なく心に押し寄せてくる状態。
過去を振り返っては「ああすればよかった」と悔やみ、未来を思っては「これからどうなってしまうのか」と怖れる。心の休まる暇がまったくない。これがお釈迦さまの説かれた、誰もが死に際に体験する心の状態なのです。
人生を振り返って生まれる「後悔」
まず、「悔」つまり後悔について見ていきましょう。 ある本によれば、人が臨終に抱く後悔は、主に次の5つに集約されるそうです。
- 自分に正直に生きていけばよかった
- 働きすぎなければよかった
- 思い切って自分の気持ちを伝えておけばよかった
- 友人と連絡を取り続けておけばよかった
- 幸せをあきらめなければよかった
「もっと働けばよかった」ではなく、「働きすぎなければよかった」と悔やむのは、考えさせられますね。 特に注目したいのは、最後の「幸せをあきらめなければよかった」という後悔です。
私たちは皆、幸せになりたくて生きています。でも、頑張っても本当の幸せには手が届かず、いつしか「人生なんてこんなものだ」と諦めてしまってはいないでしょうか。
その諦めが、人生の最後に「あきらめなければよかった…」という、取り返しのつかない強烈な後悔となって襲いかかってくるのです。
後悔の先にある、根元的な「怖れ」
尽きることのない後悔の念だけでも苦しいのに、臨終の苦しみはそれだけではありません。「悔懼交至」のもう一つ、「懼」、すなわち怖れが待ち構えています。
後悔が「過去」に対するものなら、この怖れは「未来」に対するもの。
「死んだら、自分はどうなってしまうのだろう?」
これは、誰もが抱く根元的な問いであり、未知の世界に対する底知れない恐怖です。 後悔の念にさいなまれ、さらに未来への絶対的な不安が心を真っ暗にする。
では、この人生を根底から揺るがす「怖れ」の正体とは、一体何なのでしょうか。
なぜ死はこれほど怖いのか?不安の根元「無明の闇」の正体
「死んだらどうなるか分からない」──これが無明の闇
臨終に私たちを苦しめる、過去への後悔と未来への怖れ。このうち、より根元的な問題が未来への怖れです。この怖れの正体を、仏教では 「無明の闇(むみょうのやみ)」 といいます。
「無明」とは、文字通り「明かりが無い」、つまり真っ暗闇のこと。 何がそんなに暗いのかというと、「死んだらどうなるのかが分からない」、この一点に尽きます。死後の世界がハッキリしない心を「暗い」と表現するんですね。
これこそが、私たちの人生における、あらゆる不安の根元です。どんなにモノやお金に恵まれても、どんなに愛する家族や多くの友人に囲まれても、心の底から消えない漠然とした不安。その発生源が、この「無明の闇」なのです。
この心を、「後生暗い心(ごしょうくらいこころ)」ともいいます。「後生」とは死後のこと。どこへ旅立つのか分からない、そのハッキリしない心が、私たちの人生の根本的な不安を生み出しているのです。
人生は「気晴らし」の連続?
これほど大きな不安を抱えているのに、なぜ私たちは毎日平気で暮らしていけるのでしょうか。 それは、私たちが仕事や趣味、恋愛といった様々な「気晴らし」で、この不安から巧みに目をそらしているからです。
哲学者のパスカルも、著書『パンセ』の中で「人間は気晴らしがなければ生きていけない」と指摘しました。気晴らしがなければ、私たちはむき出しの不安に耐えられないからです。太陽をまともに見られないように、死を直視することもまた、あまりに怖すぎるのかもしれません。
しかし、どんな気晴らしも、臨終の時にはすべて通用しなくなります。ごまかしのきかない、むき出しの不安と向き合わなければならない時が、必ずやってくるのです。
本当に急がなければならないこと
お釈迦さまは、この私たちの姿を、お経の中でこう仰っています。
世人薄俗にして、共に不急のことを諍う (せじんはくぞくにして、ともにふきゅうのことをあらそう)
「世の中の人は、人生に対する考えが非常に浅く薄っぺらい。なぜなら、急がなくてもいいことで争っているからだ」という意味です。お金や人間関係も大切ですが、人生にはもっと急いでやらなければならないことがある、と教えられています。
コロナのパンデミックで世の中が一変した時、「不要不急の外出は控えて」と盛んに言われました。ある高齢の男性が新聞に「人生を振り返ると、不要不急のことばかりしてきたように思う。本当に急ぐべきことは何だったのか」と投書していたのが心に残りました。
では、人生で本当に急がなければならない「不要不急ではない」こととは、一体何でしょう? それこそが、この「無明の闇」を晴らすことなのです。
死んだらどうなるか分からない暗い心を、ハッキリとした明るい心にガラリと変えることが、この人生でできる。それを急ぎなさいと、お釈迦さまは教えておられるのです。
無明の闇を破る唯一の光―お釈迦さまが示された道
無明長夜の闇を破る「南無阿弥陀仏」
では、どうすれば人生の根本的な不安である「無明の闇」を、今、この生きている間に打ち破ることができるのでしょうか。
その力を持つものこそが、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」です。
「またその結論?」と思う方もいるかもしれませんね。はい、いつも同じ結論です。なぜなら、これが真実だからです。この揺るぎない真実を、一人でも多くの方にお伝えしたいのです。
私たちを果てしなく長い間苦しめてきた「無明の闇」。これは「無明長夜(むみょうちょうや)の闇」ともいわれます。この重く暗い心を、一瞬で破る絶大な力を持つのが、南無阿弥陀仏なのです。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、その働きをこう詠われています。
無碍光如来(むげこうにょらい)の名号と かの光明智相(こうみょうちそう)とは 無明長夜の闇を破し 衆生(しゅじょう)の志願(しがん)をみてたまう
阿弥陀仏という仏さまが創られた「南無阿弥陀仏」には、私たちを苦しめてきた心の闇を、完全に打ち破る力がある、と断言されています。
「破闇満願」──闇が破れ、願いが満たされる
この歌は、「衆生の志願をみてたまう」と続きます。これは、心の闇が破れると同時に、もう一つの重大な出来事が起きることを示しています。これを「破闇満願(はあんまんがん)」といいます。
- 破闇(はあん) 南無阿弥陀仏をいただいた瞬間、不安の根元だった無明長夜の闇は完全に消え去り、一点の曇りもない明るい心になります。
- 満願(まんがん) 同時に、阿弥陀仏の「すべての人を絶対の幸福にする」という大いなる願いが、この私の上に満たされます。だからこそ、何ものにも壊されない、本当の幸せの身になることができるのです。
「人間に生まれてきてよかったなあ!」と、心の底から大満足できる人生が、この命ある今、実現するのです。
死の不安が消え、歓喜の心に
この「破闇満願」によって、私たちの心は180度変わります。 「死んだらどうなるんだろう…」という不安が消え、死後がハッキリと明るい世界になる。それだけでなく、この人生そのものを、明るく楽しく、力強く生きていけるようになるのです。
お釈迦さまは「聞其名号(もんごみょうごう) 信心歓喜(しんじんかんぎ)」(その名号を聞いて信じなさい、そうすれば歓喜の身になれるのだよ)と、私たちに呼びかけておられます。
この救いは、あっという間もない「一念」の出来事。南無阿弥陀仏をいただく一瞬で、私たちの人生は、暗闇から光へ、苦しみから幸せへと、全く新しい世界に生まれ変わるのです。
結論:死の不安を乗り越え、今を明るく生き抜くために
今回は、「死ぬ瞬間の心境」という、誰もが避けて通れないテーマについて見てきました。 最後に、要点を振り返っておきましょう。
- 「他人の死」と「私の死」は違う それは「動物園の虎」と「ジャングルの虎」ほど違います。専門家でさえ、我が身の死の前では苦悩しました。
- 臨終の心は「悔懼交至」 お釈迦さまは、臨終には「後悔」と「怖れ」の波が絶え間なく押し寄せてくると説かれています。
- 怖れの正体は「無明の闇」 あらゆる不安の根元は、「死んだらどうなるか分からない」という心の暗闇でした。しかし私たちは日々「気晴らし」で、この問題から目をそらしています。
- 闇を破る唯一の光が「南無阿弥陀仏」 人生で本当に急ぐべきは、この「無明の闇」を晴らすことです。なくすることです。そして、その闇を破る力を持つのが「南無阿弥陀仏」です。
この南無阿弥陀仏をいただくことで、闇が破れると同時に(破闇)、絶対の幸福の身になることができます(満願)。死の不安から解放され、「人間に生まれてきてよかったなぁ」と心から喜べる人生を歩むことができるのです。
死の不安は、死ぬまで持ち越す問題ではありません。生きている今、ただ今、この世で解決できるのです。